サトル・アベ氏は、1955年の油絵作品『Me and Three Mourners』について語りたがらなかった。その絵は、ワイキキのラグジュアリーロウでこの秋開催された彼の回顧展で、人目を引く入り口に飾られていた。意味ありげなこの作品の配置は、アーティストの思わせぶりな演出としか思えない。
この絵には、白と黄土の空間に、人物のような3つの暗い影が、それらより一回り大きなシルエットの下に描かれている。大きいシルエットは安置されていて、葬られているかのようだ。これは4枚の絵で構成されるアベ氏の『The White Paintings』シリーズのうちの1枚だ。いかにも平凡で無機質なネーミングから、この若手アーティスト独特のユーモアが伝わってくる。93歳となった今も、個展の入口に飾られた『Me and Three Mourners』が、アベ氏の遊び心の健在ぶりを示している。
「入口に飾ってある絵は、アベ氏ご自身の葬式をイメージしたものですか?」と私が尋ねると、
「その話はしたくないな」と彼は答えた。
彼はつかのま黙り込むと、まもなくその絵について話し出した。『Me and Three Mourners』は、パレットナイフを使って描いたもので、日本の芸術学校を出て、多くの新しいアイディアを胸にハワイに戻った頃の作品だという。アベ氏は、1950年代半ば当時から数十年 にわたり、木や人間のシルエットや器、無といったもの題材に創作活動を続けてきた。『The White Paintings』以来、5,000を超える作品を手がけているアベ氏は、アートの媒体を問わず、一貫したアイディアと皮肉なユーモアを貫いている。
彼のユーモラスな作品の1つは、1953年の絵画『Humanity』 だ。この絵には、どこまでも絡まりあった得体の知れない熱狂した生き物が無秩序に描かれている。群衆の中から、何者か見分けのつかない一人の人物(リーダーだろうか)が飛び出し、腕を広げている姿が目を引く。サトル・アベ氏は、秩序のある一体化したものから枝分かれしていく構造や組織を繊細な感覚と確かな技術で表現する。
水差しやピッチャーといった器として描かれた人の胴体は、サトル・アベ氏の様々な絵画や彫刻に見られる。1992年の作品『Seventeen Men』や2010年の『Seven』では、「体は魂の入れ物 に過ぎない」という比喩を、文字通りこのイメージを用いて視覚的に表現している。
アベ氏は、テーマや象徴といった面倒な質問に答えることを好まないようだ。ギャラリーでは毎日、あらゆる年齢層のビジターが興味を持つデモンストレーションを行っていたのだから、そんな余裕はなかったのかもしれない。重なり合ったり絡まったりする複雑なフォームに、接合や移植といった手法を使わない彼の作品に、エロスはどう影響しているのかと尋ねると、彼ははぐらかすように「うーん、わからないな」と言った。
サトル・アベ氏の作品は、ユーモアとスピリチュアリティに溢れているが、一方で頑強さを感じさせる。1981年に溶接銅とブロンズで製作した『Volcano』のように、サトル・アベ氏が工業的な材料を好むからであるかもしれない。あるいは1985年の作品『One Tree』の絡 み合う枝と難解な符号が不思議な緊張感を生み出すように、アベ氏の表現する奇妙なフォームがそんな印象を与えるのかもしれない。
職人気質なアベ氏は、表現方法の一つとして彫刻を選び、精神性や存在論的な思想を反映する手段として絵画を選んだという。アベ氏が芸術について語るのを好まないのは、それが仕事や教会についての会話と似ているからではないだろうか。相手を退屈させることを嫌うのだろう。
アート以外について聞くとアベ氏は、駆け出しのアーティストだった頃のことを懐かしそうに話してくれた。彼はハワイ大学マノア校近くにあった、今はなき「クヒオグリル」を溜まり場にしていた、アバンギャルドな若手アーティストグループ「メトカーフ・シャトー・コレクティブ」の一員だったという。「あの頃、僕たちはビールを1本だけ注文しては、居座っていたものだよ。あとは全部お店が払ってくれていたん だ」。今もクヒオグリルのオーナーのマーク・ミヤシロさんの寛大さに感謝しているとアベ氏は熱く語った。
当初から、メトカーフ・シャトーのアーティストたちのサポーターの一人だったミヤシロさんは、若い抽象表現主義のアーティストたちにビールをご馳走し、好きなだけカードゲームなどの娯楽に講じさせてくれた。彼らの作品を購入するのはもちろん、彼らにとって何より大切な居場所を提供してくれた恩人なのだという。クヒオグリルで過ごした楽しい日々を振り返り、「カードゲームに講じるばかりで、アートについて話した記憶がないくらいさ」とアベ氏は笑った。
水差しやピッチャーといった器として描かれた人の胴体は、サトル・アベ氏の様々な絵画や彫刻に見られる。
5,000を超える作品を手がけているアベ氏は、アートの媒体を問わず、一貫したアイディアと皮肉なユーモアを貫いている。
ハワイのアーティストのサトル・アベ氏は、50年以上にわたり、世代を超えて愛される作品を作り続けている。
サトル・アベ氏の作品は、スピリチュアルなテーマと 磨き抜かれた技が光る。
アベ氏は、長年の創作活動で、さまざまな有機的なフォルムを取り入れている。
サトル・アベ氏の作品『Seasons』
キャンバスにオイル、1991年。ポール・コダマ氏撮影
サトル・アべ氏の作品『Three Rocks』
キャンバスにオイル、1991年。ポール・コダマ氏撮影
サトル・アベ氏の作品『Enchanting Forest』
キャンバスにオイル、1995年。ポール・コダマ氏撮影
サトル・アベ氏は、1955年の油絵作品『Me and Three Mourners』について語りたがらなかった。その絵は、ワイキキのラグジュアリーロウでこの秋開催された彼の回顧展で、人目を引く入り口に飾られていた。意味ありげなこの作品の配置は、アーティストの思わせぶりな演出としか思えない。
この絵には、白と黄土の空間に、人物のような3つの暗い影が、それらより一回り大きなシルエットの下に描かれている。大きいシルエットは安置されていて、葬られているかのようだ。これは4枚の絵で構成されるアベ氏の『The White Paintings』シリーズのうちの1枚だ。いかにも平凡で無機質なネーミングから、この若手アーティスト独特のユーモアが伝わってくる。93歳となった今も、個展の入口に飾られた『Me and Three Mourners』が、アベ氏の遊び心の健在ぶりを示している。
サトル・アベ氏は、1955年の油絵作品『Me and Three Mourners』について語りたがらなかった。その絵は、ワイキキのラグジュアリーロウでこの秋開催された彼の回顧展で、人目を引く入り口に飾られていた。意味ありげなこの作品の配置は、アーティストの思わせぶりな演出としか思えない。
この絵には、白と黄土の空間に、人物のような3つの暗い影が、それらより一回り大きなシルエットの下に描かれている。大きいシルエットは安置されていて、葬られているかのようだ。これは4枚の絵で構成されるアベ氏の『The White Paintings』シリーズのうちの1枚だ。いかにも平凡で無機質なネーミングから、この若手アーティスト独特のユーモアが伝わってくる。93歳となった今も、個展の入口に飾られた『Me and Three Mourners』が、アベ氏の遊び心の健在ぶりを示している。
「入口に飾ってある絵は、アベ氏ご自身の葬式をイメージしたものですか?」と私が尋ねると、
「その話はしたくないな」と彼は答えた。
彼はつかのま黙り込むと、まもなくその絵について話し出した。『Me and Three Mourners』は、パレットナイフを使って描いたもので、日本の芸術学校を出て、多くの新しいアイディアを胸にハワイに戻った頃の作品だという。アベ氏は、1950年代半ば当時から数十年 にわたり、木や人間のシルエットや器、無といったもの題材に創作活動を続けてきた。『The White Paintings』以来、5,000を超える作品を手がけているアベ氏は、アートの媒体を問わず、一貫したアイディアと皮肉なユーモアを貫いている。
彼のユーモラスな作品の1つは、1953年の絵画『Humanity』 だ。この絵には、どこまでも絡まりあった得体の知れない熱狂した生き物が無秩序に描かれている。群衆の中から、何者か見分けのつかない一人の人物(リーダーだろうか)が飛び出し、腕を広げている姿が目を引く。サトル・アベ氏は、秩序のある一体化したものから枝分かれしていく構造や組織を繊細な感覚と確かな技術で表現する。
水差しやピッチャーといった器として描かれた人の胴体は、サトル・アベ氏の様々な絵画や彫刻に見られる。1992年の作品『Seventeen Men』や2010年の『Seven』では、「体は魂の入れ物 に過ぎない」という比喩を、文字通りこのイメージを用いて視覚的に表現している。
アベ氏は、テーマや象徴といった面倒な質問に答えることを好まないようだ。ギャラリーでは毎日、あらゆる年齢層のビジターが興味を持つデモンストレーションを行っていたのだから、そんな余裕はなかったのかもしれない。重なり合ったり絡まったりする複雑なフォームに、接合や移植といった手法を使わない彼の作品に、エロスはどう影響しているのかと尋ねると、彼ははぐらかすように「うーん、わからないな」と言った。
サトル・アベ氏の作品は、ユーモアとスピリチュアリティに溢れているが、一方で頑強さを感じさせる。1981年に溶接銅とブロンズで製作した『Volcano』のように、サトル・アベ氏が工業的な材料を好むからであるかもしれない。あるいは1985年の作品『One Tree』の絡 み合う枝と難解な符号が不思議な緊張感を生み出すように、アベ氏の表現する奇妙なフォームがそんな印象を与えるのかもしれない。
職人気質なアベ氏は、表現方法の一つとして彫刻を選び、精神性や存在論的な思想を反映する手段として絵画を選んだという。アベ氏が芸術について語るのを好まないのは、それが仕事や教会についての会話と似ているからではないだろうか。相手を退屈させることを嫌うのだろう。
アート以外について聞くとアベ氏は、駆け出しのアーティストだった頃のことを懐かしそうに話してくれた。彼はハワイ大学マノア校近くにあった、今はなき「クヒオグリル」を溜まり場にしていた、アバンギャルドな若手アーティストグループ「メトカーフ・シャトー・コレクティブ」の一員だったという。「あの頃、僕たちはビールを1本だけ注文しては、居座っていたものだよ。あとは全部お店が払ってくれていたん だ」。今もクヒオグリルのオーナーのマーク・ミヤシロさんの寛大さに感謝しているとアベ氏は熱く語った。
当初から、メトカーフ・シャトーのアーティストたちのサポーターの一人だったミヤシロさんは、若い抽象表現主義のアーティストたちにビールをご馳走し、好きなだけカードゲームなどの娯楽に講じさせてくれた。彼らの作品を購入するのはもちろん、彼らにとって何より大切な居場所を提供してくれた恩人なのだという。クヒオグリルで過ごした楽しい日々を振り返り、「カードゲームに講じるばかりで、アートについて話した記憶がないくらいさ」とアベ氏は笑った。
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