ハワイ語で母親は「マクアヒネ」。ハワイでは通常、レイを贈ったり、家族 でブランチに出かけたりして母の日を祝う。母の好きな花を選び(私の 母のお気に入りはピカケとパカラナだ)、母が着るドレスに合うレイを買 うか作って、母と仲良く腕を組んでレストランに向かう。弁当を作ってく れたり、お小遣いをくれたり、母がこれまで私たちにしてくれたこと全て に感謝の気持ちを込めて、特別な食事をご馳走するのだ。ミモザを飲み ながら会話を楽しみながら、何よりも家族の思い出話に花を咲かせる のが、母にとっては一番の贈り物だろう。私たちが生まれた頃の貴重な 瞬間や私たちを育てれくれた頃の懐かしい記憶が蘇り、幸せなノスタル ジーに浸ることができるのだから。
母の教えと性格についてのストーリー:ミハナとナパリ・スーザ
母の教えと性格についてのストーリー:マリア・カアイフエとマイカ&ケアヌエヌエ・デ
マリ・マツダさんとキミコ・マツダ・ローレンスさん。一家の邸宅で。
ビーディーとドン・ドーソン
ビーディー・ドーソンさんから娘のドン・ドーソンさんへの言葉:「常に明 確な信念を持ち、そのために主張しなさい。正義やポノ(善良や健康、 調和のとれた状態)のために戦いなさい)」
緑豊かなヌウアヌ渓谷の奥深くにドーソン一家は住んでいる。彼らの家 庭ではクレアナ(責任)やハアハア(謙虚さ)やマラマ・アイナ(土地や環 境を守る)といった言葉が、教育の柱として世代から世代へと受け継が れている。故アニー・カナヘレさんとその娘のビーディー・ドーソンさん、 そして孫娘のドン・ドーソンさんが代々大切に守ってきたこれらの価値 観は全て、環境保護への取り組みやハワイアンの権利に関する知識の 普及活動といった彼らの行動の指針となっている。
1893年のハワイ王国の転覆。その3年後に生まれたカナヘレさ んは、その後も荒廃の一途を辿るイオラニ宮殿の行く末を憂いていた。 娘のビーディーさんは1965年、女性のコミュニティリーダーで構成さ れるボランティア団体「ジュニア・リーグ・オブ・ホノルル」の次期プロジ ェクトとして、この歴史的建造物の修復と家具の復元を提案した。この 大規模なプロジェクトに賛同した仲間のメンバーたちは、まずは人づて を頼りに、オリジナルの家具の在りかかを調査し始めた。今日のイオラ ニ宮殿は、非営利団体「フレンズ・オブ・イオラニパレス」によって今も修 復作業が続けられ、ほぼ元の姿に戻りつつある。
その後もビーディーさんはハワイアンの権利保護活動を続けて いる。1997年には、ハワイアンの子孫の教育のために多くの遺産を残 したパウアヒ王女の遺言信託を管理する受託者のあり方を見直すため に訴訟を起こしていた受益者の学生や教師、卒業生や保護者たちで構 成される「ナ・プア・ア・ケ・アリイ・パウアヒ」を無償で弁護した。ビショッ プ・エステートの受託者たちは、本来の受益者である学校はなく受託者 自らの利益を優先するため、信託財産を長年にわたり利用してきたと 非難されていた。ナ・プアの弁護士であるビーディーさんの働きにより、 受託者の行動に関してより客観的な外部調査が行われるようになっ た。この結果が報道されたことで、受託者による長年の不正行為が暴か れ、信託受益者に対する一般市民からの支持も得ることができた。
孫のドン・ドーソンさんも彼女自身の分野で普及活動を続けてい る。ハワイ州への映画撮影の誘致や支援を行う映画コミッショナーとし て活躍するドンさんは、映画の製作過程におけるハワイの環境と海洋 保護や作品中でのハワイ文化の描写の妥当性を監督し、作品の内容を ハワイ独自の文化的視点で吟味した上で、ハワイ州内での撮影を許可 すべきかを決定する「。自分の文化や環境に対して強い意識を持ってい ることで、個人的な攻撃を受けることもあります」とドンさんは言う。「そ れでも揺らぐことはありません。きっとそれが私のDNAなのです」。
緑豊かなヌウアヌ渓谷の奥深くにドーソン一家は住んでいる。彼らの家 庭ではクレアナ(責任)やハアハア(謙虚さ)やマラマ・アイナ(土地や環 境を守る)といった言葉が、教育の柱として世代から世代へと受け継が れている。故アニー・カナヘレさんとその娘のビーディー・ドーソンさん、 そして孫娘のドン・ドーソンさんが代々大切に守ってきたこれらの価値 観は全て、環境保護への取り組みやハワイアンの権利に関する知識の 普及活動といった彼らの行動の指針となっている。
1893年のハワイ王国の転覆。その3年後に生まれたカナヘレさ んは、その後も荒廃の一途を辿るイオラニ宮殿の行く末を憂いていた。 娘のビーディーさんは1965年、女性のコミュニティリーダーで構成さ れるボランティア団体「ジュニア・リーグ・オブ・ホノルル」の次期プロジ ェクトとして、この歴史的建造物の修復と家具の復元を提案した。この 大規模なプロジェクトに賛同した仲間のメンバーたちは、まずは人づて を頼りに、オリジナルの家具の在りかかを調査し始めた。今日のイオラ ニ宮殿は、非営利団体「フレンズ・オブ・イオラニパレス」によって今も修 復作業が続けられ、ほぼ元の姿に戻りつつある。
その後もビーディーさんはハワイアンの権利保護活動を続けて いる。1997年には、ハワイアンの子孫の教育のために多くの遺産を残 したパウアヒ王女の遺言信託を管理する受託者のあり方を見直すため に訴訟を起こしていた受益者の学生や教師、卒業生や保護者たちで構 成される「ナ・プア・ア・ケ・アリイ・パウアヒ」を無償で弁護した。ビショッ プ・エステートの受託者たちは、本来の受益者である学校はなく受託者 自らの利益を優先するため、信託財産を長年にわたり利用してきたと 非難されていた。ナ・プアの弁護士であるビーディーさんの働きにより、 受託者の行動に関してより客観的な外部調査が行われるようになっ た。この結果が報道されたことで、受託者による長年の不正行為が暴か れ、信託受益者に対する一般市民からの支持も得ることができた。
孫のドン・ドーソンさんも彼女自身の分野で普及活動を続けてい る。ハワイ州への映画撮影の誘致や支援を行う映画コミッショナーとし て活躍するドンさんは、映画の製作過程におけるハワイの環境と海洋 保護や作品中でのハワイ文化の描写の妥当性を監督し、作品の内容を ハワイ独自の文化的視点で吟味した上で、ハワイ州内での撮影を許可 すべきかを決定する「。自分の文化や環境に対して強い意識を持ってい ることで、個人的な攻撃を受けることもあります」とドンさんは言う。「そ れでも揺らぐことはありません。きっとそれが私のDNAなのです」。
マリア・カアイフエとマイカ&ケアヌエヌエ・デソト
カアイフエさんとデソトさんの一家では、毎年年初めに10人家族 (2018年12月30日に末っ子のワイラナ君が生まれたばかり)の各自 が新年の抱負を設定し、全員で話し合うのが恒例だ。中には優秀な成績を取ることや家賃を滞納せず支払うといった現実的なものもあるが、 母親のマリア・カアイフエさん(39歳)は、夫と子供たちにそれぞれの人 間性を磨くことを求める。21歳になる息子のマイカさんは、明確な意識 と感謝の気持ちを持つこと、マイカさんの妹の15歳のケアヌエヌエさん は、忍耐強くなることをそれぞれ目標に掲げている。起業家でコミュニ ティリーダーでもあるマリアさん自身もまた、日々の生活において多くの ことに関心を持ち、周りに気を配れるよう意識して毎日を過ごしている。
マリアさんはハワイ大学マノア校に入学して間もない大学一年の 時、マイカさんを妊娠した。その後彼女は、10年間かけて母親業と学 業を両立しながら4つの学位を取得した。博士課程の勉強をしていた 頃は、毎朝6時に起き、子供たちの学校の支度を済ませ、午前9時から の授業に出席、睡眠時間を削って論文を書く日々を送った。政治学で博 士号を取得した後、マリアさんは高等教育の教職をとり、しばらくしてハ ワイ人問題事務所(OHA)に入った。その後、2013年に今後10世代先 の未来を担う子供達にとって有益なハワイを形作るために、大規模プ ロジェクトとハワイの文化や地元社会とのより密接な関与を提案する 戦略的組織「DTLハワイ」を設立した。
その間、子供たちは「自分の人生は自分で設計するもの」という 母親のアドバイスに忠実に従っていった。マイカさんは高校3年生のと き、ローカルデザーナー「マナロア」のファッションショーでモデルとし てデビューを果たした。翌年、彼はニューヨークとマイアミに拠点を置く モデル事務所のノーマッドマネジメントと契約し、これまでにタイでの 仕事を受けたり、ニューヨークのファッションウィークのショーにも2回 出演した。マイカさんは今も地元ハワイや海外でモデルを続けている。
カメハメハスクールズの高校2年生のケアヌエヌエさんも一端 の起業家である。2015年に、水着ブランドの「アヌ・ハワイ」を立ち上 げ、2018年10月にはハワイの文化経済振興を支援する非営利団体の「カウンシル・オブ・ネイティブ・ハワイアン・アドバンスメント」のための ファッションショーを開催。現在、彼女はバリにある工場で彼女の水着 ブランドの大量生産に取り組んでいる。デソト家の子供たちは、たとえ 新年の抱負が実現できなくても、毎年新たな目標を設定することで、「 物事は起きるのを待つのではなく、自分で起こすもの」という母からの 大切な教えを実行することができるのだと教えてくれた。
マリア・カアイフエさんから息子のマイカ・デソトさんへの言葉: 「自分の持つ文化を意識して。自分を決して恥じることのないように」
カアイフエさんとデソトさんの一家では、毎年年初めに10人家族 (2018年12月30日に末っ子のワイラナ君が生まれたばかり)の各自 が新年の抱負を設定し、全員で話し合うのが恒例だ。中には優秀な成績を取ることや家賃を滞納せず支払うといった現実的なものもあるが、 母親のマリア・カアイフエさん(39歳)は、夫と子供たちにそれぞれの人 間性を磨くことを求める。21歳になる息子のマイカさんは、明確な意識 と感謝の気持ちを持つこと、マイカさんの妹の15歳のケアヌエヌエさん は、忍耐強くなることをそれぞれ目標に掲げている。起業家でコミュニ ティリーダーでもあるマリアさん自身もまた、日々の生活において多くの ことに関心を持ち、周りに気を配れるよう意識して毎日を過ごしている。
マリアさんはハワイ大学マノア校に入学して間もない大学一年の 時、マイカさんを妊娠した。その後彼女は、10年間かけて母親業と学 業を両立しながら4つの学位を取得した。博士課程の勉強をしていた 頃は、毎朝6時に起き、子供たちの学校の支度を済ませ、午前9時から の授業に出席、睡眠時間を削って論文を書く日々を送った。政治学で博 士号を取得した後、マリアさんは高等教育の教職をとり、しばらくしてハ ワイ人問題事務所(OHA)に入った。その後、2013年に今後10世代先 の未来を担う子供達にとって有益なハワイを形作るために、大規模プ ロジェクトとハワイの文化や地元社会とのより密接な関与を提案する 戦略的組織「DTLハワイ」を設立した。
その間、子供たちは「自分の人生は自分で設計するもの」という 母親のアドバイスに忠実に従っていった。マイカさんは高校3年生のと き、ローカルデザーナー「マナロア」のファッションショーでモデルとし てデビューを果たした。翌年、彼はニューヨークとマイアミに拠点を置く モデル事務所のノーマッドマネジメントと契約し、これまでにタイでの 仕事を受けたり、ニューヨークのファッションウィークのショーにも2回 出演した。マイカさんは今も地元ハワイや海外でモデルを続けている。
カメハメハスクールズの高校2年生のケアヌエヌエさんも一端 の起業家である。2015年に、水着ブランドの「アヌ・ハワイ」を立ち上 げ、2018年10月にはハワイの文化経済振興を支援する非営利団体の「カウンシル・オブ・ネイティブ・ハワイアン・アドバンスメント」のための ファッションショーを開催。現在、彼女はバリにある工場で彼女の水着 ブランドの大量生産に取り組んでいる。デソト家の子供たちは、たとえ 新年の抱負が実現できなくても、毎年新たな目標を設定することで、「 物事は起きるのを待つのではなく、自分で起こすもの」という母からの 大切な教えを実行することができるのだと教えてくれた。
マリ・マツダとキミコ・マツダ・ローレンス
マリ・マツダさんは娘のキミコ・マツダ・ローレンス さんへの言葉:「あなたの持つ力を忘れないで」
大抵の子供たちは、大学に通うまで地域格差問題や家父長制度、組織 的人種差別について学ぶことはないだろう。ともにハワイ大学マノア校 の法学部教授のマリ・マツダさんとチャールズ・ローレンス3世に育て られたキミコ・マツダ・ローレンスさんは例外だ。キミコさんが育った家 庭では、批判的人種理論やフェミニスト理論が食卓を囲んで日常的に 議論された。両親は著名な学者で理論家のキャサリン・マッキノンさん とも親しい交友関係にあった。アジア系アメリカ人女性としては初の 終身職の法学部教授であったマリさんは、ハロウィーンの衣装作りや 修学旅行に同行する合間を縫っては、子供たちを連れて抗議行動に 参加した。
マリさんは、ワシントンDCとのちにホノルルにも家を持ち、異な る政治情勢に子供たちを積極的に触れさせた。それにより母親に同行 して法学の授業や全国会議に出席することもあったキミコさんと弟の ポールさんは、子供の頃から彼らを待ち受ける現実の世界を垣間見る ことができた。キミコさんがハーバード大学の学士課程に在学中、キャ ンパスの日刊新聞『ハーバードクリムゾン』に黒人学生の資格を問う反 アファーマティブアクションを容認する記事が発表された。それを受け て、キミコさんは60人の黒人学生をフィーチャーし、彼らの大学での経 験を綴った写真キャンペーン『アイ・トゥー・アム・ハーバード』を展開し た。黒人の学生たちが大学の他の人種の学生から受けた差別的な発言 をホワイトボードに書いて掲げたこの『アイ・トゥー・アム・ハーバード』 キャンペーンは、2014年に始まって以来、エール大学やアイオワ大学と いった他の大学にも波及ている。
今日、キミコさんは作家と劇作家としてニューヨークに住み、マリ さんは現在もハワイ大学マノア校で法律を教えている。この母娘にとっ て、地域社会活動は二人の関係に今も欠かせないものとなっている。 2018年12月、キミコさんは例年通りホリデーを楽しむためにハワイを 訪れた。彼女は実家に滞在中も、沖縄での米軍駐留とサンゴ礁の破壊 に反対する母の抗議運動に加わっている。
大抵の子供たちは、大学に通うまで地域格差問題や家父長制度、組織 的人種差別について学ぶことはないだろう。ともにハワイ大学マノア校 の法学部教授のマリ・マツダさんとチャールズ・ローレンス3世に育て られたキミコ・マツダ・ローレンスさんは例外だ。キミコさんが育った家 庭では、批判的人種理論やフェミニスト理論が食卓を囲んで日常的に 議論された。両親は著名な学者で理論家のキャサリン・マッキノンさん とも親しい交友関係にあった。アジア系アメリカ人女性としては初の 終身職の法学部教授であったマリさんは、ハロウィーンの衣装作りや 修学旅行に同行する合間を縫っては、子供たちを連れて抗議行動に 参加した。
マリさんは、ワシントンDCとのちにホノルルにも家を持ち、異な る政治情勢に子供たちを積極的に触れさせた。それにより母親に同行 して法学の授業や全国会議に出席することもあったキミコさんと弟の ポールさんは、子供の頃から彼らを待ち受ける現実の世界を垣間見る ことができた。キミコさんがハーバード大学の学士課程に在学中、キャ ンパスの日刊新聞『ハーバードクリムゾン』に黒人学生の資格を問う反 アファーマティブアクションを容認する記事が発表された。それを受け て、キミコさんは60人の黒人学生をフィーチャーし、彼らの大学での経 験を綴った写真キャンペーン『アイ・トゥー・アム・ハーバード』を展開し た。黒人の学生たちが大学の他の人種の学生から受けた差別的な発言 をホワイトボードに書いて掲げたこの『アイ・トゥー・アム・ハーバード』 キャンペーンは、2014年に始まって以来、エール大学やアイオワ大学と いった他の大学にも波及ている。
今日、キミコさんは作家と劇作家としてニューヨークに住み、マリ さんは現在もハワイ大学マノア校で法律を教えている。この母娘にとっ て、地域社会活動は二人の関係に今も欠かせないものとなっている。 2018年12月、キミコさんは例年通りホリデーを楽しむためにハワイを 訪れた。彼女は実家に滞在中も、沖縄での米軍駐留とサンゴ礁の破壊 に反対する母の抗議運動に加わっている。
ジョイス・オカノとケナ・リード
1984年、まだ大学生だったジョイス・オカノさんは米国初の独立店舗 となるシャネルの経営を任されることとなり、グッチでの職を離れた。ル ールは自分で作りたかったという彼女。このブティックには、シャネルの ブランドにすでに親しんでいた日本人顧客が集まり、オカノさんはハワ イ市場に合う商品を選び、店の最上階を地元のアートギャラリーに改 造して、ローカル顧客を取り込むことにも成功した。初店舗でのこの功 績が認められ、オカノさんはハワイやアメリカ西海岸でのシャネルの新 店舗開拓のサポートを依頼されるようになった。
オカノさんの28歳の娘、ケナ・リードさんもまた起業家になる道 を選んだ。子供の頃からパリやニューヨークでのファッションウィーク に出席していた経験がいかに特別なものであるかを当時は知る由もな かったと話す。オカノさんは、幼い頃からファッション界に身を置いてい た3人の娘がランウェイから発信される有害なイメージに感化されるこ とがないよう、敢えて「『ランウェイを歩くモデルたちは異常よ。あんなに 痩せているのは自然ではないわ』と娘たちに教えていました」という。
リードさんはハワイで写真家としてのキャリアを歩みだした当初、 母親と同じようなことを経験した。痩せた体型のモデルを撮影し、さら にその写真をフォトショップで加工して、不自然なまでの美しさを作り 上げる。そんな美の世界に疑問を抱いたリードさんは、人間であれ物で あれ個人的に魅力を感じるものにレンズを向けることにした。以来、彼 女はカカアコにあるフラワーショップのパイコでの撮影の仕事を受ける ようになり、フリーランスの写真家として自らが愛する美の世界を追求 し、腕を磨くことを日々楽しんでいる。リードさんは、彼女の仕事での経 験が、いつの日か1歳と5歳の2人の娘にとって、彼ら自身の創造力をど こまでも追求するインスピレーションとなることを願っている。
リードさんのクリエイティブなキャリアが開花し始めた頃、オカノ さんはシャネルを退職した。現在、彼女はハワイ州立美術館の非営利 団体「フレンズ・オブ・ザ・ハワイ・ステート・アート・ミュージアム」の会長 を務める。長年にわたってカハラにある自宅をプライベートギャラリー に作り変えてきたオカノさん。これらの絵画や彫刻はルーヴル美術館や MoMAに家族で訪れた時の思い出に満ちている。これまでに経験した ファッションウィークの旅の中でも親子で訪れたミュージアムがオカノ さんとリードさんにとっては一番の思い出だという。
ケナさんは母親のジョイス・オカノさんについて 「母の生き方そのものが私にとっては何よりのアドバイスでした」と語る。
1984年、まだ大学生だったジョイス・オカノさんは米国初の独立店舗 となるシャネルの経営を任されることとなり、グッチでの職を離れた。ル ールは自分で作りたかったという彼女。このブティックには、シャネルの ブランドにすでに親しんでいた日本人顧客が集まり、オカノさんはハワ イ市場に合う商品を選び、店の最上階を地元のアートギャラリーに改 造して、ローカル顧客を取り込むことにも成功した。初店舗でのこの功 績が認められ、オカノさんはハワイやアメリカ西海岸でのシャネルの新 店舗開拓のサポートを依頼されるようになった。
オカノさんの28歳の娘、ケナ・リードさんもまた起業家になる道 を選んだ。子供の頃からパリやニューヨークでのファッションウィーク に出席していた経験がいかに特別なものであるかを当時は知る由もな かったと話す。オカノさんは、幼い頃からファッション界に身を置いてい た3人の娘がランウェイから発信される有害なイメージに感化されるこ とがないよう、敢えて「『ランウェイを歩くモデルたちは異常よ。あんなに 痩せているのは自然ではないわ』と娘たちに教えていました」という。
リードさんはハワイで写真家としてのキャリアを歩みだした当初、 母親と同じようなことを経験した。痩せた体型のモデルを撮影し、さら にその写真をフォトショップで加工して、不自然なまでの美しさを作り 上げる。そんな美の世界に疑問を抱いたリードさんは、人間であれ物で あれ個人的に魅力を感じるものにレンズを向けることにした。以来、彼 女はカカアコにあるフラワーショップのパイコでの撮影の仕事を受ける ようになり、フリーランスの写真家として自らが愛する美の世界を追求 し、腕を磨くことを日々楽しんでいる。リードさんは、彼女の仕事での経 験が、いつの日か1歳と5歳の2人の娘にとって、彼ら自身の創造力をど こまでも追求するインスピレーションとなることを願っている。
リードさんのクリエイティブなキャリアが開花し始めた頃、オカノ さんはシャネルを退職した。現在、彼女はハワイ州立美術館の非営利 団体「フレンズ・オブ・ザ・ハワイ・ステート・アート・ミュージアム」の会長 を務める。長年にわたってカハラにある自宅をプライベートギャラリー に作り変えてきたオカノさん。これらの絵画や彫刻はルーヴル美術館や MoMAに家族で訪れた時の思い出に満ちている。これまでに経験した ファッションウィークの旅の中でも親子で訪れたミュージアムがオカノ さんとリードさんにとっては一番の思い出だという。
ミハナとナパリ・スーザ
「何事でも為せば成る」と息子のナパリ・スーザさ んに語りかけるミハナ・スーザさん。
子供の頃、母親が音楽を演奏している間、ムームーの下に隠れていたの を記憶しているという ナパリ・スーザさん。ミハナ・スーザさんの花柄 のたよやかなドレスに覆われながら、彼は母親の奏でるベースの音と彼 女の歌うハワイアンメロディーを聞いて育った。ナパリさんは、その記憶 が現実であったのか夢だったのか今や定かではないというが、その情 景はその後の彼の人生がどうなったのか物語っている。
36歳のナパリさんは、オアフにあるハワイアンデザインのアパレル ブランド、「サルベージ・パブリック」の共同創業者である。サルベージ・ パブリックのデザインには、ナパリさんの幼少時代、女性3人組のバンド
「プアマナ」のメンバーのミハナさんから受けた音楽的影響が反映され ている。ナパリさんを妊娠中、ミハナさんはベースをお腹に当てて演奏 し、自ら「『サウンドオブミュージック』のトラップ一家のハワイ版」と呼ぶ ほどの音楽一家に育った。著名なハワイアン作曲家のイルムガード・ア ルリさんを祖母に持ち、従兄弟や兄弟姉妹全員が歌やフラを習ってい た彼にとって、音楽は常に家族の中心にあった。
ミハナさんの公演からの帰宅が深夜になると、幼いナパリさんは 決まって家の玄関で母の帰りを辛抱強く待っていたという。今、同じカ イルアの家の裏庭に座って、ナパリさんはサルベージ・パブリックのTシ ャツのデザインのインスピレーションにもなっているアンティ・イルムガ ードの歌の歌詞をつぶやく。「パウ・カ・ハナ、タイム・トゥー・プレイ」。そ こにミハナさんが加わり二人で優しく歌い上げる。
子供の頃、母親が音楽を演奏している間、ムームーの下に隠れていたの を記憶しているという ナパリ・スーザさん。ミハナ・スーザさんの花柄 のたよやかなドレスに覆われながら、彼は母親の奏でるベースの音と彼 女の歌うハワイアンメロディーを聞いて育った。ナパリさんは、その記憶 が現実であったのか夢だったのか今や定かではないというが、その情 景はその後の彼の人生がどうなったのか物語っている。
36歳のナパリさんは、オアフにあるハワイアンデザインのアパレル ブランド、「サルベージ・パブリック」の共同創業者である。サルベージ・ パブリックのデザインには、ナパリさんの幼少時代、女性3人組のバンド「プアマナ」のメンバーのミハナさんから受けた音楽的影響が反映され ている。ナパリさんを妊娠中、ミハナさんはベースをお腹に当てて演奏 し、自ら「『サウンドオブミュージック』のトラップ一家のハワイ版」と呼ぶ ほどの音楽一家に育った。著名なハワイアン作曲家のイルムガード・ア ルリさんを祖母に持ち、従兄弟や兄弟姉妹全員が歌やフラを習ってい た彼にとって、音楽は常に家族の中心にあった。
ミハナさんの公演からの帰宅が深夜になると、幼いナパリさんは 決まって家の玄関で母の帰りを辛抱強く待っていたという。今、同じカ イルアの家の裏庭に座って、ナパリさんはサルベージ・パブリックのTシ ャツのデザインのインスピレーションにもなっているアンティ・イルムガ ードの歌の歌詞をつぶやく。「パウ・カ・ハナ、タイム・トゥー・プレイ」。そ こにミハナさんが加わり二人で優しく歌い上げる。
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