ハワイの音楽は、偉大なるバンドやミュージシャンたちの努力によっ て、ハワイ王国転覆後も廃れることはなかった。19世紀後半から20世 紀初頭にかけて、米国内外の博覧会で演奏活動を行っていたハワイア ンのミュージシャンたちは、ハワイ独自の弦楽合奏団の音楽を世界中 に広め、ハワイの君主制への支持を求めた。
「アメリカの伝統音楽の起源といえば、ほとんどの人が1920年 代を思い浮かべるけど、音楽家たちは1870年代から1880年代にか けて、すでにアメリカ大陸を自由に往来していたんだ」と語るのは、カイ ルアにあるKRストリングスのオーナーで弦楽器職人のキリン・リース さん。彼は、これらのミュージシャンが与えた影響について研究する非 営利団体「ケアラカイ・センター・フォー・パシフィック・ストリングス」 を2014年に設立した。
ギターを中心とする弦楽合奏団の音楽は、ウクレレやマンドリン、バンジョー、バイオリン、そして時にフルートを伴う。ハワイアンのミ ュージシャンたちによって世界中に広められたこのアンサンブル形式は、カントリー、ブルーグラス、ウエスタンスウィングに影響を与え、リースさんの研究によると、誰もがアメリカ音楽と考えるジャズも深く掘り下げれば、そのルーツはハワイ王国にあるという。
その第一線で活躍したのが、メキア・ケアラカイさんだ。貧しい家庭に育ち、ホノルルの教護院で巡り合ったロイヤルハワイアンバンドの指揮者、ヘンリー・バーガー氏のもと、ギターやトロンボーン、ピアノ、フルートを学んで才能を開花させ、ハワイを代表する偉大なミュージシャンとなった人物である。ケアラカイさんは15歳で卒業後、ハワイ王朝専属のロイヤルハワイアンバンドに入団し、1893年まで演奏を続けた。君主制への忠誠を誓った彼は、ハワイ王国転覆後にバンドを去ると、主にネイティブハワイアンの元ロイヤルハワイアンバンドメンバーで構成されたハワイアンナショナルバンドに加わり、米国大陸をツアー。その後も他のバンドとともに、20年以上にわたってアメリカやヨーロッパをツアーで巡った。1901年には、ニューヨーク世界万博で、妻でフラダンサーのメレ・ナヴァアヘイヘイさんと出会う。二人はロンドン、パリ、そしてカンヌでも共演した。
ケアラカイさんはツアー中、故郷に想いを馳せた名曲の「ワイアラエ」、「カヴァイハウ・ワルツ」、「エ・ペレ・エ」、「コー・レオ」などを作曲している。彼の作曲の代表作でもある「レイ・アワプヒ」は、電車から見えるヒナギク畑の景色を歌ったもので、この名曲は今でもハワイアンア ーティストたちの間で歌われ続けている。
1915年、ケアラカイさんはニューヨークに滞在中、マーティン・ギター・カンパニーと共同で、大きな音の出る大きめのボディと高いブリッジでスライド演奏を可能にする、のちに “ドレッドノートギター” として知られるギターの原型を開発した。ケアラカイさんは、スチールギターの発案者であるジョセフ・ケクク氏とも生涯の友であった。ドレッドノートギターはその後、ジョニー・キャッシュやポール・マッカートニ ー、ハンク・ウィリアムズ、エルヴィス・プレスリーなどに使用されるようになった。
リースさんは、「メキアの生涯について掘り下げるうちに、彼をはじめとする当時のアーティストたちが、想像を超える偉業を成し遂げていたにもかかわらず、その事実がほとんど知られていないことに気づいたんだ」と話す。「何千年も昔からハワイアンの社会にあった音や音楽や踊りの文化的な概念や歌のビジョンが、現在われわれの知る音楽をどのように形成し、楽器の演奏法やデザインそのものにどんな影響を及ぼしたかについて掘り下げる必要があるんだ」。
「ハワイ音楽を保存するために、君の助けが必要だ」。ケアラカイさんは1920年に、当時ホノルル市長だったジョン・ウィルソン氏に召還され、アメリカ合衆国の一州として併合されたハワイへと戻った。当時、ハワイ語を排除しようとする政府の影響で、ハパハオレ(外国の影響を半分受けたハーフという意味)音楽がハワイの歌の主流となり、ハワイの伝統音楽は廃れる一方であった。ヨーロッパからハワイへ戻ったケアラカイさんは、1920年から1926年、そして1930年から1932年にかけてロイヤルハワイアンバンドの指揮者を務め、伝統的なハワイアンソングの演奏を復活させた。ハワイの音楽を支えた王家を讃える「ナ・ラニ・エハ」を彼が作曲したのもこの頃だ。
「メキアは、王国時代の弦楽団スタイルとハワイ語の曲やハワイ語の作曲家にふたたび焦点を当て、生涯を通してハワイ音楽の保存のために尽くした偉大な作曲家だったんだ」とリースさんは語る。
19世紀を代表する奇才音楽家のメキア・ケアラカイ
(1867‒1944)(右)は、ハワイアンミュージックの最前線にいた。
ザ・ホノルル・スチューデンツ。左から、ルイ・ケオウリ・トンプソン、マダム・アネヒラ、ウィリアム・ホロウア。
6本の弦のアコースティックギターと写っているあるフラダンサー。19世紀後半、ハワイのフラグループに好んで使用されたギターは、ダンサーたちと共に世界中を旅した。
カラカウア・コーポレーション・セレブレーション・パレードとロイヤルハワイアンバンド。それに続くケオネウラ・ボーイズ・インダストリアル・スクール。1883年2月12日。この時、ケアラカイさんはトロンボーンを演奏していた。
セントルイス合唱クラブ、1900年頃
ザ・ホノルル・スチューデン ツ。1907年頃。ギターを中心と する弦楽合奏団の音楽は、ウク レレやマンドリン、バンジョー、 バイオリン、そして時にフルート を伴った。デューク・カハナモク の叔父で、バイオリン奏者とバリ トーンのヴォーカルを担当した ルイ・ケオウリ・トンプソンが率 いたバンド。
スタジオ撮影でポーズをする 初期のハワイアンフラダンサー とミュージシャンたち。
ハワイの音楽は、偉大なるバンドやミュージシャンたちの努力によっ て、ハワイ王国転覆後も廃れることはなかった。19世紀後半から20世 紀初頭にかけて、米国内外の博覧会で演奏活動を行っていたハワイア ンのミュージシャンたちは、ハワイ独自の弦楽合奏団の音楽を世界中 に広め、ハワイの君主制への支持を求めた。
「アメリカの伝統音楽の起源といえば、ほとんどの人が1920年 代を思い浮かべるけど、音楽家たちは1870年代から1880年代にか けて、すでにアメリカ大陸を自由に往来していたんだ」と語るのは、カイ ルアにあるKRストリングスのオーナーで弦楽器職人のキリン・リース さん。彼は、これらのミュージシャンが与えた影響について研究する非 営利団体「ケアラカイ・センター・フォー・パシフィック・ストリングス」 を2014年に設立した。
ギターを中心とする弦楽合奏団の音楽は、ウクレレやマンドリン、バンジョー、バイオリン、そして時にフルートを伴う。ハワイアンのミ ュージシャンたちによって世界中に広められたこのアンサンブル形式は、カントリー、ブルーグラス、ウエスタンスウィングに影響を与え、リースさんの研究によると、誰もがアメリカ音楽と考えるジャズも深く掘り下げれば、そのルーツはハワイ王国にあるという。
その第一線で活躍したのが、メキア・ケアラカイさんだ。貧しい家庭に育ち、ホノルルの教護院で巡り合ったロイヤルハワイアンバンドの指揮者、ヘンリー・バーガー氏のもと、ギターやトロンボーン、ピアノ、フルートを学んで才能を開花させ、ハワイを代表する偉大なミュージシャンとなった人物である。ケアラカイさんは15歳で卒業後、ハワイ王朝専属のロイヤルハワイアンバンドに入団し、1893年まで演奏を続けた。君主制への忠誠を誓った彼は、ハワイ王国転覆後にバンドを去ると、主にネイティブハワイアンの元ロイヤルハワイアンバンドメンバーで構成されたハワイアンナショナルバンドに加わり、米国大陸をツアー。その後も他のバンドとともに、20年以上にわたってアメリカやヨーロッパをツアーで巡った。1901年には、ニューヨーク世界万博で、妻でフラダンサーのメレ・ナヴァアヘイヘイさんと出会う。二人はロンドン、パリ、そしてカンヌでも共演した。
ケアラカイさんはツアー中、故郷に想いを馳せた名曲の「ワイアラエ」、「カヴァイハウ・ワルツ」、「エ・ペレ・エ」、「コー・レオ」などを作曲している。彼の作曲の代表作でもある「レイ・アワプヒ」は、電車から見えるヒナギク畑の景色を歌ったもので、この名曲は今でもハワイアンア ーティストたちの間で歌われ続けている。
1915年、ケアラカイさんはニューヨークに滞在中、マーティン・ギター・カンパニーと共同で、大きな音の出る大きめのボディと高いブリッジでスライド演奏を可能にする、のちに “ドレッドノートギター” として知られるギターの原型を開発した。ケアラカイさんは、スチールギターの発案者であるジョセフ・ケクク氏とも生涯の友であった。ドレッドノートギターはその後、ジョニー・キャッシュやポール・マッカートニ ー、ハンク・ウィリアムズ、エルヴィス・プレスリーなどに使用されるようになった。
リースさんは、「メキアの生涯について掘り下げるうちに、彼をはじめとする当時のアーティストたちが、想像を超える偉業を成し遂げていたにもかかわらず、その事実がほとんど知られていないことに気づいたんだ」と話す。「何千年も昔からハワイアンの社会にあった音や音楽や踊りの文化的な概念や歌のビジョンが、現在われわれの知る音楽をどのように形成し、楽器の演奏法やデザインそのものにどんな影響を及ぼしたかについて掘り下げる必要があるんだ」。
「ハワイ音楽を保存するために、君の助けが必要だ」。ケアラカイさんは1920年に、当時ホノルル市長だったジョン・ウィルソン氏に召還され、アメリカ合衆国の一州として併合されたハワイへと戻った。当時、ハワイ語を排除しようとする政府の影響で、ハパハオレ(外国の影響を半分受けたハーフという意味)音楽がハワイの歌の主流となり、ハワイの伝統音楽は廃れる一方であった。ヨーロッパからハワイへ戻ったケアラカイさんは、1920年から1926年、そして1930年から1932年にかけてロイヤルハワイアンバンドの指揮者を務め、伝統的なハワイアンソングの演奏を復活させた。ハワイの音楽を支えた王家を讃える「ナ・ラニ・エハ」を彼が作曲したのもこの頃だ。
「メキアは、王国時代の弦楽団スタイルとハワイ語の曲やハワイ語の作曲家にふたたび焦点を当て、生涯を通してハワイ音楽の保存のために尽くした偉大な作曲家だったんだ」とリースさんは語る。
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