リズミカルな蹄の音が近づいてくる。フルギャロップの6頭の馬の不協 和音が、到着したばかりの蒸気船から下船する観光客と商品を売り歩 く港の商人の人混みの間に響き渡る。すると赤、オレンジ、白のシルクを 身に纏った女性騎手たちの姿とともに、真昼の太陽の下で燃えさかる ような色の旋風が巻き起こった。
蒸気船が乗客を降ろすためにホノルル港に停泊する汽船の日、 女性騎手たちはホノルルのダウンタウンに集まっていた。たくさんの訪 問者や地元の人々の視線を浴びながら、彼女たちの騎馬隊はでこぼこ した街道を颯爽と駆け抜け、2人あるいは3人ずつ並んで互いにスピー ドを競い合った。長い乗馬用スカートは後ろで膨らみ、結んでいない髪 と新鮮なレイの花輪とともに風になびいている。
当時、馬術は男性だけのものと見なされていた。アメリカのカウボ ーイやその元となったヴァケロ、牧場の働き手だったロデオマンなどが その例だ。ハワイの“パニオロ”という言葉からも馬上から指揮する男性 のイメージが浮かぶ。にもかかわらずこの日レースをしているライダー の中に男性は一人としていなかった。
彼女たちはトレードマークになっているユニークな乗馬用スカー トにちなんで“パウライダー”と呼ばれた。1803年にハワイに馬が持ち 込まれ、乗馬が島内の主要な交通手段となって以降、パウライダーは 19世紀に最盛期を迎えた。
ハワイの女性騎手たちがヨーロッパやアメリカの騎手たちと異な ったのはストリートレースを好んだことだけではなかった。彼女たちは あえてサイドサドル(横鞍)をしなかった。控えめな女性像を保つための 西洋の乗り方は乗馬をかえって面倒なものにした。彼女たちはサイドサ ドルの代わりに跨って馬に乗った。バージニア・コワン・スミス氏とボニ ー・ドムローズ・ストーン氏は、1995年の著書『アロハ・カウボーイ』で、
「ハワイの女性ライダーたちは不安定なサイドサドルは起伏の多い島 の地形に不向きと考え、ヨーロッパ式のこの乗馬方法を好まなかった」 と書いている。
だがこの乗り方には一つ問題があった。当時人気のあったドレス は床まで届く丈の長いスカートで、馬に跨るのは乗り心地が良くなかっ たのだ。女性がズボンを履くことは1800年代後半まで社会的に受け 入れられていなかったこともあり、そこで誕生したのがパウスカートだ。 長さ23メートルにもなる生地を巻き付けて折りこんだ流れるようなキ ュロットスタイルのスカートは乗馬服として機能した。ホロクなどの正 装ドレスの上に着用すれば、乗馬中には埃や汗、雨から衣服を守り、社 交の場に到着すると脱ぐことができた。
初期のパウはシンプルで、生地も質素なものだった。カジノキの樹 皮から作った布をカマニオイルに浸して防水加工したタパが使用され た。のちに綿、更紗や格子柄の綿織物といった丈夫な輸入生地が好ま れるようになった。パウスカートは、今日のレインコートと同じように実 用的な衣服として扱われていた。
馬がより身近になり、乗馬が娯楽やレクリエーションとなるにつ れてそれは変化していった。男女のグループで馬に乗って田舎を散策 する乗馬パーティーがハワイの王族によって広まった。リリウオカラニ 女王がまだ王女だった頃に結成した「フイ・ホロ・リオ・ア・リリウオカラ ニ」もその一つだ。ジョナ・クヒオ・カラニアナオレ王子がメレ(歌)に残 すほど愛した乗馬クラブでもある。何時間にもおよぶ遠出の乗馬では パウは下の衣服を保護するためのものではなく、パウ自体が衣服とな っていった。
そうしてシンプルだった生地は華やかなものに変わっていった。 パウの生地を専門に扱うパウドレーパーが様々なスタイルで折った鮮 やかな色のサテンとシルクの生地のスカートに腰当てとプリーツを作っ てククイナッツで留めていく「。たくさんの種類の美しいプリントのパウ とそれに合わせて作った華やかなレイは、さぞかし美しい光景だったは ずです」と現代のパウドレーパーのキモ・アラマ氏は言う。
1800年代後半には、パウライダーは街中や田舎でも一般的に見 られるようになった。この光景を目の当たりにした西洋人たちは、家父 長制からの離脱やゴダイヴァ夫人のような抵抗行為に当たる解放運動 などと捉えたかもしれない。そこには男性に縛られず、馬に跨って自由に 通りを駆ける女性たちの姿があった。
実際のところ、パウライダーたちは何かに抵抗しているわけでは なかったという。彼女たちは純粋に人生を謳歌するハワイの女性たちで あった。「当時のハワイに苦難の乙女という概念はありませんでした。な ぜならハワイの女性たちは多くの権限を持っていてアメリカやヨーロッ パの女性たちよりも自由だったのです。昔のハワイの女性がパウとギャ ロップを身につけたければ、彼女は夫にそう言うだけでよかったのです。 議論の余地はありませんでした」と語る。
ところがパウライダーの時代はすぐに終焉を迎える。20世紀に入 るとハワイの道路には馬に代わって電動の乗り物が増え、やがて車や 路面電車が通行できるようホノルル市内の通りでの乗馬は違法とされ た。この頃の新聞「パラダイス・オブ・ザ・パシフィック」の表紙を『パウス カートよ、安らかに眠れ』という見出しが飾っている。
ハワイのパウライダーの伝統が今も廃れていない背景には、パレ ードの存在がある。1905年、リジー・パウアヒという名士が40人の女 性騎馬隊を組織し、フローラルパレードをパウスタイルで行進したのが 始まりだ。その1年後、テレサ・ウィルコックスが色とりどりのパウの衣装 を見どころとする2つ目の女性騎馬隊を結成した。まもなくしてパウライ ダーは地元パレードの名物となり、ハワイ王家の血筋を引くリディア・リ リウオカラニ・カワナナコア王女をはじめ、上流社会の女性たちがパウ 姿でパレードを行進するのが通例となった。
今日もアロハウィークパレードやカメハメハデイパレードのよう な毎年恒例のイベントでその伝統は続いている。各島を代表する王女 と側近が行進するパレードの先頭には、パウライダーに授けられる称号 でもっとも栄誉のあるパウクイーンがいる。
パレードは現代のパウライダーにとって、フラダンサーにとっての メリーモナークと同じくらい特別な意味を持つ晴れ舞台だ。その準備 には費用がかかり、期間も数か月に及ぶ。「観客がパレードで騎馬隊を目にするほんの2、3分間のために、どれだけの時間と労力が注がれてい るのか知る人は少ないでしょう」と数十年にわたってカメハメハデイパ レードの公式パウドレーパーを務めるアラマ氏は言う。
「私は3歳の時から娘たちを訓練しているわ。母が私にしてくれ たのと同じようにね」と話すのは、ハワイパウライダーズを率いるレイア ラ・クックさん。パウライディングは多世代にわたることが多く、クックさ んのような騎手は幼い頃から娘たちを訓練する。2010年、クックさん はキングカメハメハデイパレードに出馬する最年少パウクイーンの1人 に選ばれた。長女のヘブンリーさんがいつか同じ栄誉を授かることを望 んでいるという彼女は、「パウライディングは私をとても満たされた気 分にしてくれるの。レガシーを受け継ぐことができるのだから」と語った。
その活力に満ちた起源から現在に至るまで、パウライディングは ハワイアン生粋のショーマンシップと独自性の象徴だ。アラマ氏はこう 語っている。「私はよくパウライダーのいないパレードは単なるパレード で、ハワイアンパレードではないと言います。それはハワイが世界で唯 一無二の存在である証です。ここハワイにしかないものを受け継いでい くこと。私にとってはそれが大切なことなのです」。
パウスタイルで馬に乗って いるリディア・リリウオカラ ニ・カワナナコア王女。
パウライダーは地元のパレ ードの名物であった。
「土曜の午後になると、女性たちはあらゆる装飾品をかき集めて身に着 ける」と1866年にハワイを訪れたマーク・トウェインは書き残している。
「彼女たちの存在で、通りや市場がパッと華やぐ」。
彼女たちはトレードマークと なったユニークなライディン グスカートにちなんで“パウ ライダー”と呼ばれた。
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