ハワイ州立公文書館で記録官を務めるアダム・ジャンセンさんは、「ここ にある資料の中でも、女王個人の王旗にまつわる物語はとりわけ興味深いものです」と語る。
ジャンセンさんは、イオラニ宮殿の敷地内にあるバニヤンツリーの木陰に建つ白いコンクリートとガラスでできた建物、ケカウルオヒ・ビルの受付カウンターから閲覧室まで僕を案内してくれた。この公文書館に保管されているのは、400m³におよぶ初期王国から米国併合までのハワイの行政史をはじめとする政府の記録だ。所蔵されている最古の文書は、1790年にイギリスの船員サイモン・メトカーフがカメハメハ一世に宛てて書いた怒りの手紙で、彼のオフィサーの釈放を拒否すれば、大規模な報復措置を取ると脅す内容だ。
この公文書館には、1,000を超える収蔵品があり、それらは「ハワイの歴史を物語る極めて貴重な品々」なのだとジャンセンさんは説明する。その中でも貴重なのが、王旗や式典用バナーやハワイ王国の国旗といった旗のコレクションだ。
展示室の反対側のテーブルには、中央にハワイの紋章が縫い付けられた金色の旗が広げられている。 それはかつてリリウオカラニ女王のものだったとジャンセンさんが教えてくれた。リリウオカラニ女王の紋章が入ったこの旗は、女王の存在を示す個人的な王旗として、女王の行く先々で掲げられた。(カピオラニ女王とカイウラニ王女にもそれぞれ王旗があった)
この旗は、1893年1月17日、ハワイ王国政府が転覆した日、イオラニ宮殿の上に掲揚されていたものだ。ジャンセンさんが「ハワイの歴史における最も暗い時代」と呼ぶ、宮殿の旗が降ろされたこの日以来、 女王の旗は85年間姿を消した。1978年、この旗はジャンセンさんがテーブルの上に並べて見せてくれた米軍の軍刀とともにハワイに返還された。
金メッキでできた軍刀は、蛍光灯の下で輝いている。柄と鞘に繊細な装飾が施され、実に豪華だ。この旗と剣は、1月17日に旗を降ろしたハワイ州警備隊のジョン・グッド・ジュニアの孫によってハワイ州に寄付された。(グッドは、反乱軍に武器を届けようとする彼を制した警察官に対し、クーデターにおいて唯一の一発を発射した人物と記録に残っている)
グッドが米国本土に戻る際、持ち帰った女王の旗は、その家で火事に遭うも、焼失を免れた。ジャンセンさんは、生地が燃えて変色した 部分を指差した。のちにグッドの孫に引き継がれたこの旗は、彼が軍隊学校に入る際にウェストポイントミュージアムに寄付された。ウェストポ イントで完全に復元された女王の旗は、ジョン・グッド・ジュニアの手に渡ってから85年後に、その孫の善意によって、祖父の軍刀とともにハワイに戻されたのであった。「それは暗い過去に光が差し込んだような、 強い感銘を与える行為でした。私たちが未来に向かってともに歩んでいくために何をすべきか考えさせるものでした」とジャンセンさんは語った。
次にジャンセンさんが見せてくれたのは、同じく王国時代のもの で、カラカウア王朝の1886年に王室の祝宴パレードのために作られた2枚のバナーである。カラカウア王の50歳の誕生日を祝うこの祝宴で は、1週間にわたってご馳走が振る舞われ、競技、フラ、慈善イベントな どが開催された。1つ目のバナーは、恵まれないハワイアンの女性たちの教育資金援助を目的とするリリウオカラニ教育協会のものであった。 飾りひもで縁取られた50cmx100cmの金のシルクでできたバナーは、ジェンセンさんのはめた白い手袋の中で輝きを放っている。バナー には、アップリケで「フイ・ホオナアウアオ・リリウオカラニ、マヘレ・エルア、1886年11月16日」(リリウオカラニ教育協会、第2部、1886年11月16日)と書かれ、薄緑色の絹でできた裏側には、「アロハ」と書かれている。もう一枚の赤と金のシルクでできた「フラ・オ・ホヌアカハ『カ・モイワヒネ』、1886年11月16日」と書かれた式典用のバナーは、カピオラ ニ女王のフラグループのものだ。ジャンセンさんは、これらのバナーは、慈善家たちが寄付する慈善団体のために集まる機会として作られ、受益者だけでなく寄付者たちのためのものであったと説明する。
ジャンセンさんが見せてくれた最後の所蔵品は、ハワイの国旗だった。これは、ハワイの最も象徴的な旗で、角にユニオンジャックがあり、ハワイ諸島の8つの主要な島を表す8本の横縞が入ったものだ。
彼はまず最初に、1898年8月12日に降ろされたイオラニ宮殿の兵舎に掲げられていたハエ・ハヴァイ(ハワイ国旗)を見せてくれた。この出来事を地元新聞のパシフィック・コマーシャル・アドバタイザー(現在のホノルル・アドバタイザー)は、「旗の交代:ハワイ王国のシンボルがハワイの州旗に」という見出しで報じている。その5年前、王国を転覆した反政府勢力は、暫定政府の旗としてハエ・ハヴァイを採用し、のちにそれは共和国の旗となり、アメリカ合衆国がハワイを50番目の州として合併してからは、ハワイの領土を象徴する旗に変わった。ジャンセンさんは その旗を見せながら、そこに書かれた文章を声に出して読み上げた。これはハワイ併合の日の正午に降ろされた実物の旗だ。
ジャンセンさんが箱から取り出した2枚目のハエ・ハヴァイは、1959年8月21日のハワイの州制定記念日(ステートフッド・デー) に、州議会議事堂の上に掲げられた旗だ。これは短時間のみ使用される儀式用の旗であったため、厚手の硬い生地が使われており、使用後には高官に贈る目的のものだったという。1959年8月12日、新しい旗を手にしたのは、ハワイではなく、アメリカ合衆国であった。地元紙のスター・ブレティンは、翌年に発表される50番目の星が追加された新しいアメリカ国旗を発表するアイゼンハワー大統領の写真を全ページ見開きで紹介し、この州制定記念日を祝っている。
王室の旗や式典のバナーとは違い、国旗は、ハワイのすべての民を象徴するものだ。王国時代から、暫定政府と共和国、領土時代を経て、合衆国併合に至るまで、人々の象徴であり続けている。他の旗とは違い、今日も使用されている唯一の旗である。「ハワイは今もハワイのままです。政府の形は進化し、変わっても、旗が象徴するもの、その核にある人と精神は今も生き続けています」とジャンセンさんは語る。
ハワイ語で「カ・ハエ・ハワイイ」と呼ばれるハワイ州の旗は、 ハワイの全ての人民を象徴している。
「政府の形は進化し、変わっても、旗が象徴するもの、その核にある人 と精神は今も生き続けています」とハワイの旗の歴史に詳しい州の記録官のアダム・ジャンセンさんは語る。
8本の横縞は、ハワイ諸島の8つの主要の島を表している。
ハワイ州立公文書館には、1,000を超える収蔵品があり、それらは「ハワイの歴史を物語る極めて貴重な品々です」と ジャンセンさんは説明する。
ハワイ州立公文書館で記録官を務めるアダム・ジャンセンさんは、「ここ にある資料の中でも、女王個人の王旗にまつわる物語はとりわけ興味深いものです」と語る。
ジャンセンさんは、イオラニ宮殿の敷地内にあるバニヤンツリーの木陰に建つ白いコンクリートとガラスでできた建物、ケカウルオヒ・ビルの受付カウンターから閲覧室まで僕を案内してくれた。この公文書館に保管されているのは、400m³におよぶ初期王国から米国併合までのハワイの行政史をはじめとする政府の記録だ。所蔵されている最古の文書は、1790年にイギリスの船員サイモン・メトカーフがカメハメハ一世に宛てて書いた怒りの手紙で、彼のオフィサーの釈放を拒否すれば、大規模な報復措置を取ると脅す内容だ。
この公文書館には、1,000を超える収蔵品があり、それらは「ハワイの歴史を物語る極めて貴重な品々」なのだとジャンセンさんは説明する。その中でも貴重なのが、王旗や式典用バナーやハワイ王国の国旗といった旗のコレクションだ。
展示室の反対側のテーブルには、中央にハワイの紋章が縫い付けられた金色の旗が広げられている。 それはかつてリリウオカラニ女王のものだったとジャンセンさんが教えてくれた。リリウオカラニ女王の紋章が入ったこの旗は、女王の存在を示す個人的な王旗として、女王の行く先々で掲げられた。(カピオラニ女王とカイウラニ王女にもそれぞれ王旗があった)
この旗は、1893年1月17日、ハワイ王国政府が転覆した日、イオラニ宮殿の上に掲揚されていたものだ。ジャンセンさんが「ハワイの歴史における最も暗い時代」と呼ぶ、宮殿の旗が降ろされたこの日以来、 女王の旗は85年間姿を消した。1978年、この旗はジャンセンさんがテーブルの上に並べて見せてくれた米軍の軍刀とともにハワイに返還された。
金メッキでできた軍刀は、蛍光灯の下で輝いている。柄と鞘に繊細な装飾が施され、実に豪華だ。この旗と剣は、1月17日に旗を降ろしたハワイ州警備隊のジョン・グッド・ジュニアの孫によってハワイ州に寄付された。(グッドは、反乱軍に武器を届けようとする彼を制した警察官に対し、クーデターにおいて唯一の一発を発射した人物と記録に残っている)
グッドが米国本土に戻る際、持ち帰った女王の旗は、その家で火事に遭うも、焼失を免れた。ジャンセンさんは、生地が燃えて変色した 部分を指差した。のちにグッドの孫に引き継がれたこの旗は、彼が軍隊学校に入る際にウェストポイントミュージアムに寄付された。ウェストポ イントで完全に復元された女王の旗は、ジョン・グッド・ジュニアの手に渡ってから85年後に、その孫の善意によって、祖父の軍刀とともにハワイに戻されたのであった。「それは暗い過去に光が差し込んだような、 強い感銘を与える行為でした。私たちが未来に向かってともに歩んでいくために何をすべきか考えさせるものでした」とジャンセンさんは語った。
次にジャンセンさんが見せてくれたのは、同じく王国時代のもの で、カラカウア王朝の1886年に王室の祝宴パレードのために作られた2枚のバナーである。カラカウア王の50歳の誕生日を祝うこの祝宴で は、1週間にわたってご馳走が振る舞われ、競技、フラ、慈善イベントな どが開催された。1つ目のバナーは、恵まれないハワイアンの女性たちの教育資金援助を目的とするリリウオカラニ教育協会のものであった。 飾りひもで縁取られた50cmx100cmの金のシルクでできたバナーは、ジェンセンさんのはめた白い手袋の中で輝きを放っている。バナー には、アップリケで「フイ・ホオナアウアオ・リリウオカラニ、マヘレ・エルア、1886年11月16日」(リリウオカラニ教育協会、第2部、1886年11月16日)と書かれ、薄緑色の絹でできた裏側には、「アロハ」と書かれている。もう一枚の赤と金のシルクでできた「フラ・オ・ホヌアカハ『カ・モイワヒネ』、1886年11月16日」と書かれた式典用のバナーは、カピオラ ニ女王のフラグループのものだ。ジャンセンさんは、これらのバナーは、慈善家たちが寄付する慈善団体のために集まる機会として作られ、受益者だけでなく寄付者たちのためのものであったと説明する。
ジャンセンさんが見せてくれた最後の所蔵品は、ハワイの国旗だった。これは、ハワイの最も象徴的な旗で、角にユニオンジャックがあり、ハワイ諸島の8つの主要な島を表す8本の横縞が入ったものだ。
彼はまず最初に、1898年8月12日に降ろされたイオラニ宮殿の兵舎に掲げられていたハエ・ハヴァイ(ハワイ国旗)を見せてくれた。この出来事を地元新聞のパシフィック・コマーシャル・アドバタイザー(現在のホノルル・アドバタイザー)は、「旗の交代:ハワイ王国のシンボルがハワイの州旗に」という見出しで報じている。その5年前、王国を転覆した反政府勢力は、暫定政府の旗としてハエ・ハヴァイを採用し、のちにそれは共和国の旗となり、アメリカ合衆国がハワイを50番目の州として合併してからは、ハワイの領土を象徴する旗に変わった。ジャンセンさんは その旗を見せながら、そこに書かれた文章を声に出して読み上げた。これはハワイ併合の日の正午に降ろされた実物の旗だ。
ジャンセンさんが箱から取り出した2枚目のハエ・ハヴァイは、1959年8月21日のハワイの州制定記念日(ステートフッド・デー) に、州議会議事堂の上に掲げられた旗だ。これは短時間のみ使用される儀式用の旗であったため、厚手の硬い生地が使われており、使用後には高官に贈る目的のものだったという。1959年8月12日、新しい旗を手にしたのは、ハワイではなく、アメリカ合衆国であった。地元紙のスター・ブレティンは、翌年に発表される50番目の星が追加された新しいアメリカ国旗を発表するアイゼンハワー大統領の写真を全ページ見開きで紹介し、この州制定記念日を祝っている。
王室の旗や式典のバナーとは違い、国旗は、ハワイのすべての民を象徴するものだ。王国時代から、暫定政府と共和国、領土時代を経て、合衆国併合に至るまで、人々の象徴であり続けている。他の旗とは違い、今日も使用されている唯一の旗である。「ハワイは今もハワイのままです。政府の形は進化し、変わっても、旗が象徴するもの、その核にある人と精神は今も生き続けています」とジャンセンさんは語る。
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