マリンブルーの紙に黒のインクで書かれたビクトリア・カヴェキウ・カイウラニ・ルナリロ・カラニヌイアヒラパラパ王女直筆のサイン。ハワイ王国時代に「島のバラ」と称された王女の英語名の「V」は優雅に弧を描く短くかすれた文字は、さざめく海面に巻き上がった波のように見える。カイウラニ王女が署名時に使用した「ビクトリア・カイウラニ」という略名には、彼女の血統とハワイ君主制における王位継承者としての地位を表す「of Hawaii (ハワイ王国の)」が付け加えられている。16歳の彼女がイギリスに留学していた当時の「1891年9月」という日付が入った手書きの署名は、女性的かつ形の整った美しい字で、今も語り継がれる王女の美貌と教養を象徴するものだ。 カイウラニ王女のサイン帳の表紙は、意義深い歴史書であり、知られざるハワイの歴史を紐解く鍵でもある。 1991年、イオラニ宮殿の保存とハワイ王朝の歴史の伝承に努める非営利団体の「イオラニ宮殿友の会」は、カイウラニ王女の異母兄弟の子孫にあたるトーマス・アレクサンダー・カウラアヒ・クレグホーン氏から、この本を受け取った。歴史家はその中に、1883年から1896年の間に王女が国内外で出会った人たちから集めた40ページにもおよぶサインやスケッチやメモを見つけた。 19世紀、ドイツ発祥のサイン帳は、アメリカにも広まった。白紙のページの手帳はもともと、学生同士がサインやメッセージを交換するために卒業アルバムのように使用されていたが、アメリカでは、主に有名人のサインを集めるための手帳として流行した。ウォルト・ホイットマン氏やワシントン・アーヴィング氏のファンたちが、憧れの著者のサインを集めようと夢中になっていた時代だ。カイウラニ王女は、ハワイの王族という特別な立場上、サイン帳を両方の目的で使用していたようだ。王女の手帳に残された手書きの文章や署名の多くは、彼女と交流のあった著名人のものであった。イオラニ宮殿の歴史家のジタ・カップ・チョイ氏によれば、「友情や人との絆を大切にした王女が、出会った人々を忘れないよう、この手帳にサインしてもらったのでしょう」と説明する。 このサイン帳は、カイウラニ王女の交友関係が世界中に及んでいたことを証明するものだ。1889年、13歳の王女は、妻に先立たれた父のアーチボルド・S・クレッグホーン氏(彼女の母親のリケリケ王女は2年前に他界)を残し、イギリスのブライトンの学校に数年間通った。そこで芸術、歴史、文学、物理学を学んだ王女は、1893年、ハワイ政府の転覆に抗議するために1か月休学して渡米し、ニューヨークでは、マスコミを前に感動的な演説を行った。「経験のない一人の娘でしかない私のそばに、自国の民は一人としていません。私に敵対する大勢の政治家がいるのみです。それでも私は、ハワイの人々の権利のために立ち上がります。今も私の心に響いているハワイの人々の嘆き声が、私に力を与えてくれています」。 これまで王女の旅の記録について詳しいことは、あまり知られていなかったが、サイン帳に残された署名から、王女が海外で多くの高官や要人に会っていたことが明らかになった。フランシス・ヨーゼフ・バッテンベルク王子の走り書きの文章は、王子が35歳だった1896年のものだ。カイウラニ王女の数歳年上の2人の姉妹、アンナとソフィア・レーマー氏とその母でバルト系ドイツ人の王室画家一家のセリーヌ氏による似通った文字で書かれた連名のサインもある。 カイウラニ王女がハワイ王国を救うため、米国政府に直訴したニューヨーク滞在中の1893年3月という日付が入った「アレグレット」と題された楽譜の下には、かろうじて読み取ることのできる美しい曲線を描いたサインが残されている。それは、ポーランドのピアニストで作曲家のイグナツィ・ヤン・パデレフスキ氏のものである可能性が高い。王女と出会ったこの頃、彼はミュージカルツアーのため、頻繁に米国を訪れていた。 他のページには、川を流れるバスケットに入った子供をつつくコウノトリやKの文字型に並んだヒナギク、松の林の中に建つ塔のある川岸の風景、曲がった枝の先に咲く桜の花といった優れたスケッチが挿入されていて、中にはイニシャルが入っただけのものもある。エドワード・クリフォード氏によって描かれた青い水平線に白波のたつ砂浜の水彩画もその一つだ。クリフォード氏は、ハワイ滞在中にモロカイ島カラウパパにあるハンセン病患者の療養所を訪れ、ダミアン神父と会った人物の一人で、耽美主義者として有名な英国人の肖像画家だ。 歴史学者がもっとも価値を見出しているのは、ロバート・ルイス・スティーブンソン氏直筆の詩だ。『トレジャーアイランド』と『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』の作品で有名なスコットランド人小説家の スティーブンソン氏 は、カイウラニ王女が渡米する数ヶ月前からホノルルに滞在していた。その際、スコットランド人の仲間を通して王女の父親と知り合った彼は、別れ際、カイウラニ王女への贈り物として彼女のサイン帳にこう詩を書いた。「彼女の土地から、私の土地へと彼女は旅立つ。島の娘、島のバラ…」 今日私たちが抱いているのは、この思春期のカイウラニのイメージである。23歳であまりにも早くこの世を去ったハワイの王女。これまで私たちが思い浮かべてきた王女は、彼女がこよなく愛したピカケの花が咲き、孔雀のいたワイキキの住まい「アイナハウ」の庭で戯れる幼い少女の姿だった。だが彼女のサイン帳は、そんな王女の成熟ぶりを示す証だ。そこには、偉大な女王となるべく立派に外交官の役割を果たす本物の君主たる彼女の顔があった。王女は、諸外国の要人の理解と署名を集めることで、ハワイをより良い未来に近づけようと動いていたのだった。
1897年、カイウラニ王女。リリウオカラニ女王に続く王位後継者であった。
カサイン帳には、歴史的に意義深いスケッチやイニシャル、水彩の風景画などが描かれている。中には、王女と交流のあった、この時代の有名なアーティストの作品もある。
スコットランドの小説家、ロバート・ルイス・スティーブンソン氏は、若い王女と出会った際、ハワイを旅立つ王女のためにサイン帳に詩を書き残している。
1897年、カイウラニ王女
資料写真
HAWAI‘I STATE ARCHIVES
1897年、カイウラニ王女。リリウオカラニ女王に続く王位後継者であった。
マリンブルーの紙に黒のインクで書かれたビクトリア・カヴェキウ・カイウラニ・ルナリロ・カラニヌイアヒラパラパ王女直筆のサイン。ハワイ王国時代に「島のバラ」と称された王女の英語名の「V」は優雅に弧を描く短くかすれた文字は、さざめく海面に巻き上がった波のように見える。カイウラニ王女が署名時に使用した「ビクトリア・カイウラニ」という略名には、彼女の血統とハワイ君主制における王位継承者としての地位を表す「of Hawaii (ハワイ王国の)」が付け加えられている。16歳の彼女がイギリスに留学していた当時の「1891年9月」という日付が入った手書きの署名は、女性的かつ形の整った美しい字で、今も語り継がれる王女の美貌と教養を象徴するものだ。 カイウラニ王女のサイン帳の表紙は、意義深い歴史書であり、知られざるハワイの歴史を紐解く鍵でもある。 1991年、イオラニ宮殿の保存とハワイ王朝の歴史の伝承に努める非営利団体の「イオラニ宮殿友の会」は、カイウラニ王女の異母兄弟の子孫にあたるトーマス・アレクサンダー・カウラアヒ・クレグホーン氏から、この本を受け取った。歴史家はその中に、1883年から1896年の間に王女が国内外で出会った人たちから集めた40ページにもおよぶサインやスケッチやメモを見つけた。 19世紀、ドイツ発祥のサイン帳は、アメリカにも広まった。白紙のページの手帳はもともと、学生同士がサインやメッセージを交換するために卒業アルバムのように使用されていたが、アメリカでは、主に有名人のサインを集めるための手帳として流行した。ウォルト・ホイットマン氏やワシントン・アーヴィング氏のファンたちが、憧れの著者のサインを集めようと夢中になっていた時代だ。カイウラニ王女は、ハワイの王族という特別な立場上、サイン帳を両方の目的で使用していたようだ。王女の手帳に残された手書きの文章や署名の多くは、彼女と交流のあった著名人のものであった。イオラニ宮殿の歴史家のジタ・カップ・チョイ氏によれば、「友情や人との絆を大切にした王女が、出会った人々を忘れないよう、この手帳にサインしてもらったのでしょう」と説明する。 このサイン帳は、カイウラニ王女の交友関係が世界中に及んでいたことを証明するものだ。1889年、13歳の王女は、妻に先立たれた父のアーチボルド・S・クレッグホーン氏(彼女の母親のリケリケ王女は2年前に他界)を残し、イギリスのブライトンの学校に数年間通った。そこで芸術、歴史、文学、物理学を学んだ王女は、1893年、ハワイ政府の転覆に抗議するために1か月休学して渡米し、ニューヨークでは、マスコミを前に感動的な演説を行った。「経験のない一人の娘でしかない私のそばに、自国の民は一人としていません。私に敵対する大勢の政治家がいるのみです。それでも私は、ハワイの人々の権利のために立ち上がります。今も私の心に響いているハワイの人々の嘆き声が、私に力を与えてくれています」。 これまで王女の旅の記録について詳しいことは、あまり知られていなかったが、サイン帳に残された署名から、王女が海外で多くの高官や要人に会っていたことが明らかになった。フランシス・ヨーゼフ・バッテンベルク王子の走り書きの文章は、王子が35歳だった1896年のものだ。カイウラニ王女の数歳年上の2人の姉妹、アンナとソフィア・レーマー氏とその母でバルト系ドイツ人の王室画家一家のセリーヌ氏による似通った文字で書かれた連名のサインもある。 カイウラニ王女がハワイ王国を救うため、米国政府に直訴したニューヨーク滞在中の1893年3月という日付が入った「アレグレット」と題された楽譜の下には、かろうじて読み取ることのできる美しい曲線を描いたサインが残されている。それは、ポーランドのピアニストで作曲家のイグナツィ・ヤン・パデレフスキ氏のものである可能性が高い。王女と出会ったこの頃、彼はミュージカルツアーのため、頻繁に米国を訪れていた。 他のページには、川を流れるバスケットに入った子供をつつくコウノトリやKの文字型に並んだヒナギク、松の林の中に建つ塔のある川岸の風景、曲がった枝の先に咲く桜の花といった優れたスケッチが挿入されていて、中にはイニシャルが入っただけのものもある。エドワード・クリフォード氏によって描かれた青い水平線に白波のたつ砂浜の水彩画もその一つだ。クリフォード氏は、ハワイ滞在中にモロカイ島カラウパパにあるハンセン病患者の療養所を訪れ、ダミアン神父と会った人物の一人で、耽美主義者として有名な英国人の肖像画家だ。 歴史学者がもっとも価値を見出しているのは、ロバート・ルイス・スティーブンソン氏直筆の詩だ。『トレジャーアイランド』と『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』の作品で有名なスコットランド人小説家の スティーブンソン氏 は、カイウラニ王女が渡米する数ヶ月前からホノルルに滞在していた。その際、スコットランド人の仲間を通して王女の父親と知り合った彼は、別れ際、カイウラニ王女への贈り物として彼女のサイン帳にこう詩を書いた。「彼女の土地から、私の土地へと彼女は旅立つ。島の娘、島のバラ…」 今日私たちが抱いているのは、この思春期のカイウラニのイメージである。23歳であまりにも早くこの世を去ったハワイの王女。これまで私たちが思い浮かべてきた王女は、彼女がこよなく愛したピカケの花が咲き、孔雀のいたワイキキの住まい「アイナハウ」の庭で戯れる幼い少女の姿だった。だが彼女のサイン帳は、そんな王女の成熟ぶりを示す証だ。そこには、偉大な女王となるべく立派に外交官の役割を果たす本物の君主たる彼女の顔があった。王女は、諸外国の要人の理解と署名を集めることで、ハワイをより良い未来に近づけようと動いていたのだった。
カサイン帳には、歴史的に意義深いスケッチやイニシャル、水彩の風景画などが描かれている。中には、王女と交流のあった、この時代の有名なアーティストの作品もある。
スコットランドの小説家、ロバート・ルイス・スティーブンソン氏は、若い王女と出会った際、ハワイを旅立つ王女のためにサイン帳に詩を書き残している。
クック夫妻は、生涯を通して初期のハワイの絵画を収集している。
1897年、カイウラニ王女
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