1906年当時のホノルルのチャイナタウンの地図には、たくさんの漢字が並んでいて、私のような日系四世にとっては難解なパズルのようだ。ハワイへの初期の移民である武居熱血氏によって作成されたこの地図には、チャイナタウンの日系のショップや飲食店のほか、銀行や輸入品を扱ったカスタムハウスの場所が記されている。この地図に赤で記された通りは、活気溢れる現在のチャイナタウンの街並みと一致しているが、その凡例や地図を囲む広告に至るまで、地図全体が日本語で書かれ、多くの漢字が使われている。漢字は、古代中国発祥の史上最も文字数の多い複雑な文字体系だ。7年間日本語教育を受けた私には、ほんの数語しか判読できず、日本語が堪能な友人でさえ、旧字体の漢字を読むのに苦労したほどだ。 1世紀前には、漢字が読めないなどという心配は無かったはずだ。歴史家によるとこの地図は、複写され、馴染みのある日本商店の案内図として、日本人移民に配布されたという。日用雑貨店を営んでいた武居氏は、日本からハワイへの移民が盛んだった頃、この地図を作成している。最初の日本人労働者は、1868年、デビッド・カラカウア王の統治時代に、ハワイに派遣され、活況を呈してた砂糖産業に労働力を供給した。サトウキビ畑での労働は、焼けるような太陽の下で、太い茎を収穫する10時間交代制の過酷なものだった。それでも不況だった日本から、賃金の支払われるプランテーションでの仕事を求めて、多くの人々が移民した。1900年までに、日本の本州と沖縄から何千人もの人々が労働者としてハワイにやってきた。だがピクチャーブライド(日本から花嫁をとった写真のみの見合い結婚)の始まりと家族のある世帯が増えるに従い、日系移民はサトウキビ畑から都市へと移り、より公平な条件で、高い賃金を得られるようになった。 この頃、チャイナタウンは、ペスト感染者の住む建物を焼き払うために領土政府が人為的につけた火が広がって起こった大規模な火災から復興している最中だった。17日間にわたって燃えた大火災により、チャイナタウンのほぼ全域が消失し、住民は家を失った。中国系の移民が多かった地区に、日本のビジネスオーナーが加わったことで、この地区は再び活況を取り戻し、幅広い人種が訪れるようになった。ここでは日本人も、外国人として扱われたり、英語を強いられることなく、酒を買ったり、サイミンを食べたり、映画を見たり、ホテルに泊まることができた。 日曜の朝、忙しいチャイナタウンの街を歩いていると、そんな昔の街並みは想像できない。 武居氏の地図に鮮やかな赤い四角で記されている日系人所有のビジネスがあった場所は、現在、中国系のラムやラオやシンといった名前の店頭に取って代わっている。ルーツが特定しがたい「マウナケアレイ」という名前の街角にある店に足を踏み入れると、中国人の年配の女性が迎えてくれ、流暢な広東語の会話を止めて、私に英語で話しかけてきた。レッドジンジャーの入ったバケツが並ぶ店内の壁に、この店の脊椎薬の広告と『スイスファミリーロビンソン』の旧式のVHSテープが並んでいるのが見えるが、日本文化の名残は一切感じられない。歩道に沿って野菜箱が並べられた食料品店が点在する通りに向かって歩き、通りを行き交う年配の中国人の買い物客の中に、日系人の面影を探すが見当たらない。1日の終わりに、魚や野菜を扱う生鮮市場のケカウリケマーケット内に、唯一日本人が営むポケ専門店の「まぐろブラザーズ」を見つけたが、あいにく日曜は休業日だった。 ある意味で、今のチャイナタウンは、中国系移民によって栄えた1900年以前のもとの姿を取り戻したといえる。一方で、チャイナタウンのあちこちに、新しい地元企業も出現している。ピッグ・アンド・ザ・レディ、マニフェスト、オルカイ、オーエンズ・アンド・カンパニーといった店が、あらゆる人種の若い世代を引き付けている。そして夜になると、チャイナタウンは、踊りやDJ、カクテルを楽しむ人々で賑わうトレンディなバーシーンに一変する。 それにしても日本の文化と料理はどこに行ったのだろう? 1920年までに、日系人は、ハワイの人口の42.7%を占めるようになり、その居住区も1つの地域にとどまることはなくなった。チャイナタウンでの日系人の歴史は、今日ではほとんど知られていないが、日本文化が地元文化にもたらした影響は計り知れない。私が育ったカネオヘの家から5分のところにも、メグミレストランとマサ・アンド・ジョイスという2軒のおかず屋レストランがある。ガラスのカウンターの後ろには、いなり寿司やビーフン、フライドチキンといった伝統的な惣菜や地元風の日本料理が並び、テイクアウトもできる。和食レストランなら、カイムキのせきやレストラン&デリカテッセンに勝るものはない。リーズナブルな値段で、お茶、つけ物、味噌汁、たっぷりのご飯、千切りレタスの上にのったチキンカツを味わうことができる。和菓子が食べたくなったら、パックに入ったきなこ餅をマルカイホールセールマートで購入し、自宅で手軽に楽しむこともできるのだ。 チャイナタウンの探索を終えるころには、私は武居熱血氏の地図のことをすっかり忘れていた。 チャイナタウンが、かつてのように様々なアジア文化が共生する街に戻ることはもうないかもしれないが、それはそれでいい。今のハワイでは、自宅や通りを歩いていても、ほとんどの場所に何かしらの日本文化の存在を感じるからだ。日曜のチャイナタウンくらいは、例外であってもいいと思う。
チャイナタウンは中国系移民によって栄えた1900年以前のもとの姿を取り戻した。
1900年代初頭、日系人の事業主たちは、復興中のチャイナタウンに商店を開業し、主に中国系移民を中心に栄えたエリアの消費者層を拡大した。
ハワイへの初期の移民である武居熱血氏は、日本人が所有する商店や飲食店の場所を記したチャイナタウンの地図を作成した。
1906年当時のホノルルのチャイナタウンの地図には、たくさんの漢字が並んでいて、私のような日系四世にとっては難解なパズルのようだ。ハワイへの初期の移民である武居熱血氏によって作成されたこの地図には、チャイナタウンの日系のショップや飲食店のほか、銀行や輸入品を扱ったカスタムハウスの場所が記されている。この地図に赤で記された通りは、活気溢れる現在のチャイナタウンの街並みと一致しているが、その凡例や地図を囲む広告に至るまで、地図全体が日本語で書かれ、多くの漢字が使われている。漢字は、古代中国発祥の史上最も文字数の多い複雑な文字体系だ。7年間日本語教育を受けた私には、ほんの数語しか判読できず、日本語が堪能な友人でさえ、旧字体の漢字を読むのに苦労したほどだ。 1世紀前には、漢字が読めないなどという心配は無かったはずだ。歴史家によるとこの地図は、複写され、馴染みのある日本商店の案内図として、日本人移民に配布されたという。日用雑貨店を営んでいた武居氏は、日本からハワイへの移民が盛んだった頃、この地図を作成している。最初の日本人労働者は、1868年、デビッド・カラカウア王の統治時代に、ハワイに派遣され、活況を呈してた砂糖産業に労働力を供給した。サトウキビ畑での労働は、焼けるような太陽の下で、太い茎を収穫する10時間交代制の過酷なものだった。それでも不況だった日本から、賃金の支払われるプランテーションでの仕事を求めて、多くの人々が移民した。1900年までに、日本の本州と沖縄から何千人もの人々が労働者としてハワイにやってきた。だがピクチャーブライド(日本から花嫁をとった写真のみの見合い結婚)の始まりと家族のある世帯が増えるに従い、日系移民はサトウキビ畑から都市へと移り、より公平な条件で、高い賃金を得られるようになった。 この頃、チャイナタウンは、ペスト感染者の住む建物を焼き払うために領土政府が人為的につけた火が広がって起こった大規模な火災から復興している最中だった。17日間にわたって燃えた大火災により、チャイナタウンのほぼ全域が消失し、住民は家を失った。中国系の移民が多かった地区に、日本のビジネスオーナーが加わったことで、この地区は再び活況を取り戻し、幅広い人種が訪れるようになった。ここでは日本人も、外国人として扱われたり、英語を強いられることなく、酒を買ったり、サイミンを食べたり、映画を見たり、ホテルに泊まることができた。 日曜の朝、忙しいチャイナタウンの街を歩いていると、そんな昔の街並みは想像できない。 武居氏の地図に鮮やかな赤い四角で記されている日系人所有のビジネスがあった場所は、現在、中国系のラムやラオやシンといった名前の店頭に取って代わっている。ルーツが特定しがたい「マウナケアレイ」という名前の街角にある店に足を踏み入れると、中国人の年配の女性が迎えてくれ、流暢な広東語の会話を止めて、私に英語で話しかけてきた。レッドジンジャーの入ったバケツが並ぶ店内の壁に、この店の脊椎薬の広告と『スイスファミリーロビンソン』の旧式のVHSテープが並んでいるのが見えるが、日本文化の名残は一切感じられない。歩道に沿って野菜箱が並べられた食料品店が点在する通りに向かって歩き、通りを行き交う年配の中国人の買い物客の中に、日系人の面影を探すが見当たらない。1日の終わりに、魚や野菜を扱う生鮮市場のケカウリケマーケット内に、唯一日本人が営むポケ専門店の「まぐろブラザーズ」を見つけたが、あいにく日曜は休業日だった。 ある意味で、今のチャイナタウンは、中国系移民によって栄えた1900年以前のもとの姿を取り戻したといえる。一方で、チャイナタウンのあちこちに、新しい地元企業も出現している。ピッグ・アンド・ザ・レディ、マニフェスト、オルカイ、オーエンズ・アンド・カンパニーといった店が、あらゆる人種の若い世代を引き付けている。そして夜になると、チャイナタウンは、踊りやDJ、カクテルを楽しむ人々で賑わうトレンディなバーシーンに一変する。 それにしても日本の文化と料理はどこに行ったのだろう? 1920年までに、日系人は、ハワイの人口の42.7%を占めるようになり、その居住区も1つの地域にとどまることはなくなった。チャイナタウンでの日系人の歴史は、今日ではほとんど知られていないが、日本文化が地元文化にもたらした影響は計り知れない。私が育ったカネオヘの家から5分のところにも、メグミレストランとマサ・アンド・ジョイスという2軒のおかず屋レストランがある。ガラスのカウンターの後ろには、いなり寿司やビーフン、フライドチキンといった伝統的な惣菜や地元風の日本料理が並び、テイクアウトもできる。和食レストランなら、カイムキのせきやレストラン&デリカテッセンに勝るものはない。リーズナブルな値段で、お茶、つけ物、味噌汁、たっぷりのご飯、千切りレタスの上にのったチキンカツを味わうことができる。和菓子が食べたくなったら、パックに入ったきなこ餅をマルカイホールセールマートで購入し、自宅で手軽に楽しむこともできるのだ。 チャイナタウンの探索を終えるころには、私は武居熱血氏の地図のことをすっかり忘れていた。 チャイナタウンが、かつてのように様々なアジア文化が共生する街に戻ることはもうないかもしれないが、それはそれでいい。今のハワイでは、自宅や通りを歩いていても、ほとんどの場所に何かしらの日本文化の存在を感じるからだ。日曜のチャイナタウンくらいは、例外であってもいいと思う。
チャイナタウンは中国系移民によって栄えた1900年以前のもとの姿を取り戻した。
1900年代初頭、日系人の事業主たちは、復興中のチャイナタウンに商店を開業し、主に中国系移民を中心に栄えたエリアの消費者層を拡大した。
ハワイへの初期の移民である武居熱血氏は、日本人が所有する商店や飲食店の場所を記したチャイナタウンの地図を作成した。
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