マーウィンの起こした改革
故ウィリアム・スタンレー・マーウィンの親友で親戚の作家、ロバート・ベッカー氏が叙情主義の詩人について語る
マウイ島の太平洋を望む場所に建つマーウィン邸では、整然と立ち並ぶ椰子の木々が、ラナイからのオーシャンビューを遮っている。「ウィリアムは、海を見たいのなら、海に行ってみればいいと言うのよ」。誰かに尋ねられるたびに妻のポーラ・マーウィンは説明した。誰もが青い海を望む絶景の家に住むことを夢見るが、詩人のW.S.マーウィンは違った。彼はハワイに着いたその日から、どんな植物や詩を育てられるかというこの土地に秘められた可能性に夢中になった。家の裏にある丘を登る
か、一本道を下って小さな湾に行けば、太平洋はいつでも拝むことができる。景色を楽しみたいなら、そのための努力を惜しむべきではないというのがウィリアムの持論だった。
ウィリアムとポーラを何度となく訪ねていた私が、彼らの敷地の全容を把握するのには数年かかった。というのも昼過ぎに到着し、気がつけば日が暮れていて夕飯の時間まで話し込んでしまうからだ。オアフ島へのフライトに乗り遅れたこともある。執筆を終えたウィリアムが話に加わり、食卓を囲んで座った瞬間、私たちの会話はとめどなく続く。ウィリアムの詩集『ザ・フォルディング・クリフス』のインスピレーションだったハワイの複雑な歴史の話題に引き込まれることもあれば、私たちの親戚家族について話し込むこともあった。彼の母親と私の祖母は、幼い頃から親しく育った従姉妹同士で、彼と私の仲もまた親密であった。それでも私たちの話題は、気がつけばいつも本と執筆活動に戻っていて、それは彼が偉大な作家であることに気づかされる瞬間でもあった。
きらめく黄緑色のトンネルを通り、魅惑的な森の一角の石畳の道を歩くとマーウィン邸にたどり着く。最初は、この場所を単なる美しい庭園だと思っていた。玄関の脇に積まれたバスケットやこての山は、マーウィンが造林者ではなく、庭師であることを物語っていた。赤やピンクのユリとハイビスカスの花が咲き乱れ、苔に覆われた石の噴水が近くで音を立てている。マーウィンの家に泊まるようになり多くの時間を過ごすにつれ、私はこの場所について思慮を巡らせ、その意味の深さを理解できるようになった。この森は、ウィリアムの詩と同様にハワイだけでなく人類にとって貴重な財産なのだ。
日中は森の中の様々な景色や動きに目を奪われる。森の上層で優雅に揺れる大きな椰子の樹冠、ひらひらと舞う一枚の葉、道の両脇にある丸太から生えた茶色や黄色のキノコ。移り変わる森の表情は見ていて飽きることがない。その森が夜になると、また違った表情を見せる。書斎に置かれた布団マットレスの上に横になって目を閉じると、森の話し声が聞こえてくる。ヤシの木がおしゃべりをしているかのように、キーキーと軋んで立てる音は、普通の森から聞こえてくる陰気な唸り声とは違う。その音は、まるでパーティーのように活気に溢れている。うとうとしていると、窓の外でヤシの葉が30m下の地面に落下する音に起こされることもある。夜の森は、ずっと昔からここにあったような気がして、一人の男によって植えられたことを忘れてしまいそうになる。ウィリアムがこの場所に来るまで、ここは不毛の地が広がっていた。今日、森の中で木々の優雅な会話が聞けるのも、彼のおかげなのだ。
現在、マーウィン・コンサーバンシーとして管理運営されているマーウィンの敷地は、今では想像もつかないほど荒廃していた。マウイ島ノースショアのハイクにあるこの土地は、何百年も前に森林伐採されて以来、地面の土が高地の上から吹く貿易風に飛ばされて、何十年にもわたって荒廃裸地となっていた。1960年代まで砂糖農園が営まれていたこの半島は、その後、侵略的な低木や雑草以外は育たないほど土壌が痩せ細っていたため、放牧農家に引き渡された。1970年代初頭、このエリアに最初の数エーカーを購入したウィリアムは、ハワイ固有の植物の復元を試みたが、悉く失敗に終わっていた。だがその後、大量の馬糞の肥料を加え、続けて植えたマンゴーの木とアイロンウッドの栄養分によって次第に再生され、この土地はヤシの苗木が育つほど肥沃な土壌に回復していった。以来50年が経過し、かつての休閑地には青々とした森が広がっている。この場所は、情熱を持った一人の人間の“無限の可能性”を物語っている。
マーウィン一家がこの家と土地を保護区にすることについて話し始めたとき、私は手伝いを申し出た。最初は抽象的な構想でしかなく、当時は遠い将来のことのように思われた。こうして2人がいなくなってしまうなど、想像もしていなかった。数年後、最後の詩集となる作品の執筆に集中するため、自らに代わって出席してほしいとウィリアムから依頼され、私はマーウィン・コンサーバンシーの理事会に加わった。そして2019年3月、私は親愛なる友人であり、いとこであり、師であるウィリアムを失った。今、私はニューヨークのマンハッタンにある、マーウィンが1980年代に教えていたクーパー・ユニオン大学から1ブロック離れた場所でこれを書いている。唯一の救いは、W.Sマーウィンの詩が永遠に残され、彼の森が今後もコンサーバンシーを訪れる全ての人々に語りかけてくれることだ。
マーウィンの起こした改革
故ウィリアム・スタンレー・マーウィンの親友で親戚の作家、ロバート・ベッカー氏が叙情主義の詩人について語る
マウイ島の太平洋を望む場所に建つマーウィン邸では、整然と立ち並ぶ椰子の木々が、ラナイからのオーシャンビューを遮っている「。ウィリアムは、海を見たいのなら、海に行ってみればいいと言うのよ」。誰かに尋ねられるたびに妻のポーラ・マーウィンは説明した。誰もが青い海を望む絶景の家に住むことを夢見るが、詩人のW.S.マーウィンは違った。彼はハワイに着いたその日から、どんな植物や詩を育てられるかというこの土地に秘められた可能性に夢中になった。家の裏にある丘を登るか、一本道を下って小さな湾に行けば、太平洋はいつでも拝むことができる。景色を楽しみたいなら、そのための努力を惜しむべきではないというのがウィリアムの持論だった。
ウィリアムとポーラを何度となく訪ねていた私が、彼らの敷地の全容を把握するのには数年かかった。というのも昼過ぎに到着し、気がつけば日が暮れていて夕飯の時間まで話し込んでしまうからだ。オアフ島へのフライトに乗り遅れたこともある。執筆を終えたウィリアムが話に加わり、食卓を囲んで座った瞬間、私たちの会話はとめどなく続く。ウィリアムの詩集『ザ・フォルディング・クリフス』のインスピレーションだったハワイの複雑な歴史の話題に引き込まれることもあれば、私たちの親戚家族について話し込むこともあった。彼の母親と私の祖母は、幼い頃から親しく育った従姉妹同士で、彼と私の仲もまた親密であった。それでも私たちの話題は、気がつけばいつも本と執筆活動に戻っていて、それは彼が偉大な作家であることに気づかされる瞬間でもあった。
きらめく黄緑色のトンネルを通り、魅惑的な森の一角の石畳の道を歩くとマーウィン邸にたどり着く。最初は、この場所を単なる美しい庭園だと思っていた。玄関の脇に積まれたバスケットやこての山は、マーウィンが造林者ではなく、庭師であることを物語っていた。赤やピンクのユリとハイビスカスの花が咲き乱れ、苔に覆われた石の噴水が近くで音を立てている。マーウィンの家に泊まるようになり多くの時間を過ごすにつれ、私はこの場所について思慮を巡らせ、その意味の深さを理解できるようになった。この森は、ウィリアムの詩と同様にハワイだけでなく人類にとって貴重な財産なのだ。
日中は森の中の様々な景色や動きに目を奪われる。森の上層で優雅に揺れる大きな椰子の樹冠、ひらひらと舞う一枚の葉、道の両脇にある丸太から生えた茶色や黄色のキノコ。移り変わる森の表情は見ていて飽きることがない。その森が夜になると、また違った表情を見せる。書斎に置かれた布団マットレスの上に横になって目を閉じると、森の話し声が聞こえてくる。ヤシの木がおしゃべりをしているかのように、キーキーと軋んで立てる音は、普通の森から聞こえてくる陰気な唸り声とは違う。その音は、まるでパーティーのように活気に溢れている。うとうとしていると、窓の外でヤシの葉が30m下の地面に落下する音に起こされることもある。夜の森は、ずっと昔からここにあったような気がして、一人の男によって植えられたことを忘れてしまいそうになる。ウィリアムがこの場所に来るまで、ここは不毛の地が広がっていた。今日、森の中で木々の優雅な会話が聞けるのも、彼のおかげなのだ。
現在、マーウィン・コンサーバンシーとして管理運営されているマ ーウィンの敷地は、今では想像もつかないほど荒廃していた。マウイ島ノースショアのハイクにあるこの土地は、何百年も前に森林伐採されて以来、地面の土が高地の上から吹く貿易風に飛ばされて、何十年にもわたって荒廃裸地となっていた。1960年代まで砂糖農園が営まれていたこの半島は、その後、侵略的な低木や雑草以外は育たないほど土壌が痩せ細っていたため、放牧農家に引き渡された。1970年代初頭、このエリアに最初の数エーカーを購入したウィリアムは、ハワイ固有の植物の復元を試みたが、悉く失敗に終わっていた。だがその後、大量の馬糞の肥料を加え、続けて植えたマンゴーの木とアイロンウッドの栄養分によって次第に再生され、この土地はヤシの苗木が育つほど肥沃な土壌に回復していった。以来50年が経過し、かつての休閑地には青々とした森が広がっている。この場所は、情熱を持った一人の人間の“無限の可能性”を物語っている。
マーウィン一家がこの家と土地を保護区にすることについて話し始めたとき、私は手伝いを申し出た。最初は抽象的な構想でしかなく、当時は遠い将来のことのように思われた。こうして2人がいなくなってしまうなど、想像もしていなかった。数年後、最後の詩集となる作品の執筆に集中するため、自らに代わって出席してほしいとウィリアムから依頼され、私はマーウィン・コンサーバンシーの理事会に加わった。そして2019年3月、私は親愛なる友人であり、いとこであり、師であるウィリアムを失った。今、私はニューヨークのマンハッタンにある、マーウィンが1980年代に教えていたクーパー・ユニオン大学から1ブロック離れた場所でこれを書いている。唯一の救いは、W.Sマーウィンの詩が永遠に残され、彼の森が今後もコンサーバンシーを訪れる全ての人々に語りかけてくれることだ。
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