愛しの歌

リリウオカラニ女王が作曲した歌を通して学ぶオアフ島の名所

クリスティン・ヒット
写真
クリスチャン・ナヴァロ

ハワイ王国最後の君主のリリウオカラニ女王は、1891年から1893年までハワイを統治していた。才能ある作詞家であった女王は、生涯を通じて160曲以上の歌とチャントを残している。その多くが住んだ場所や心に残った訪問先について書かれた歌で、彼女を取り巻く自然の美しさを賛美している。愛について語るものや、ハワイという土地への感謝が込められた歌もある。

マウナウィリバレー
オロマナ山の麓にあるマウナウィリの肥沃な湿地帯は、リリウオカラニ女王の作曲した『アロハ・オエ』(お別れの歌)の背景となっている。19世紀当時の人々はホノルルからヌウアヌ渓谷を通りヌウアヌパリを越え、またはワイマナロ経由でマウナウィリを通って、島のウィンドワード側に馬に乗って移動した。それは度々王室が用いたルートでもあった。

リリウオカラニはマウナウィリにあるハワイアンと英国人の血を引く名家のボイド家邸宅をよく訪れた。当時はまだ王女だった彼女が同行者のジェームズ・ボイド大佐とマウナウィリの若い女性との切ない別れに感銘を受けて曲を書いたのも、1878年にこの場所を訪れた時のことだった。ホノルルまでの帰り道、リリウオカラニは頭の中で『アロハ・オエ』の歌詞とメロディーを作り上げた。「また会えるその時まで、最後にもう一度あなたを抱きしめたい」という歌詞のこの曲は、ハワイを代表する名曲のひとつとなっている。

パオアカラニ、ワイキキ
リリウオカラニはイオラニ宮殿での8か月におよぶ幽閉中、ワイキキにある邸宅のパオアカラニの美しさを讃える『クウ・プア・イ・パオアカラニ』を作曲した。この邸宅は、女王の所有地であったカラカウア通りから現在のアラワイ運河までの内陸部のハモハモ地区に建っていた。(現在の地図上ではリリウオカラニ通りとオフア通りの間のパオアカラニ通り近くにあたる)

女王の回想録『ハワイの女王によるハワイの物語』には、「当然のことながら、ハモハモはオアフ島全体で一番の活気と健やかさに満ちた土地と考えられている。何とも言えない独特の雰囲気のこの場所には、いかなる病を患った患者をも輝きを取り戻し健康にさせる力が宿っている」と綴られている。

リリウオカラニはハモハモの土地を心から愛していた。その思いは「ʻIke mau i ka nani o nā pua, O ka uka o Uluhaimalama, ʻaʻole naʻe hoʻi e like, me kuʻu pua i ka laʻi o Paoakalani」(ウルハイマラマで育った美しい花をよく見かけるけれど、パオアカラニの畑に咲く私の花とは比べものにならない)という彼女の歌に永遠に刻まれている。

コオラウ
『ナニ・ナ・プア・コオラウ』は、1860年に22歳​​のリリウオカラニが作曲したラブソングだ。ハワイ語と英語の両方で書かれたロマンチックな曲は、コオラウの美しい花と“全ての美しい花の中で最も美しい”オヒアレフアの花を探す歌だ。「草原をさまよう者がその甘い香りに酔いしれるレフアの花、そして私は叫ぶ。あなたはどこにいるの。私の愛する人。私の心があなたを求めているの」。
当時のリリウオカラニは、ウィリアム・ルナリロやジョン・ドミニスから求婚されていた。彼女はこの曲を書いた年にジョン・ドミニスのプロポーズを受け入れ、二人は2年後に結婚した。恋人同士の互いを切望する思いと再会時の喜びを、自然への賛美とレフアの花が見つかるようにという願いに重ねている。

ヌウアヌ渓谷の下流
リリウオカラニは、カラカウア王の慈善団体「ホオウル・ラフイ」の代表として会長を務めていたカウマカピリ教会で開催されるチャリティプログラム用に、フラの曲『トゥトゥ』(祖母)を作曲した。彼女の回想録によれば「ホノルル南部のカウマカピリからマエマエまで、そしてパラマの先のエリアを含む」ホオウル・ラフイの活動を統括していた。
7人の少女が孫役を、マリア・ヘレルヘさんがおばあさん役を演じ、リリウオカラニのギターの伴奏に合わせて『トゥトゥ』を歌って踊った。頭の上にあるメガネをしきりに探す愛らしいおばあさんの歌だ。
「私の年老いた愛しいおばあさんはカアラアラアに住んでいるの」とフラは始まる。「心配事の多い世の中でおばあさんは沢山苦労をしてきたわ」。
リリウオカラニはおそらく慈善団体とゆかりのある場所として、ヌウアヌの低地にあたるカアラアラアを選んだのであろう。しかもヌウアヌ渓谷はハワイの人々にとって大きな意味を持つ。そこは最初の神 “ワーケア”が生まれたとされる場所であり、神々が最初のヘイアウ(伝統的な寺院)を建てた場所でもある。

カパラマ
カパラマには王室の邸宅が点在している。この地域はハワイの人々の食糧供給のためカメハメハ1世によって耕作され、その土地は王の子孫に受け継がれた。1884年、当時王女だったリリウオカラニは、ルース・ケエリコラニ王女のカパラマ邸の隣にある物件の購入を喜んだ。彼女は何ヶ月もかけて新しい住まいを改築し、バラをはじめとする沢山の植物を庭に植えた。

入居後、彼女は“無数の王家のつぼみ”を意味する「ムオラウラニ」という愛称で呼んだこの家を称賛する曲『ノヘア・イ・ムオラウラニ』を書いた。ムオラウラニは、キング通りとヴィンヤードブルバードの間にある現在メイヤー・ライト・ホームズ住宅公社が建っているエリアにあった。

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ハワイ王国の最後の君主であった多作な作曲家は、今も歌われている160以上の曲とチャントを残している。

リリウオカラニ女王の歌は、彼女が住んだ場所や心に残った訪問先、彼女を取り巻く自然の美しさを賛美している。

リリウオカラニは、マウナウィリからの帰路の馬上で最も有名な曲を作曲した。

リリウオカラニが生前に書いた歌やチャントには、愛について語るものやハワイという土地への感謝が込められたものが多い

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